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国家公務員になると決めたあの頃の私へ

もうすぐ働き始めて2年。
国家公務員という仕事について、就活時には、いろんなことを考えました。
右葉曲折を経て、やっぱり国で働こうと決めた時期の、noteも残っています。

成長のためには、闇雲に未来を見てるだけじゃだめというのが持論です。connecting dotsをするためにはdotsを打ち続けるだけでなく、たまに線で繋げてみる作業も必要だと思う。

だから、自分の現在地を確認すべく、過去の自分を見つめてみることにしました。下記、過去のnoteを引用しつつ、現在の思いを書いていきます。

<社会貢献という軸について>

社会貢献という言葉のマジックワード的性格についてはもちろん認識するとして、政府系機関との比較で、「公共性」という言葉の多義性にも気づいた。
政府系機関は部分最適というか、案件を進めていく時の軸に「公共性」というものがあるのだけれど、でもそれは全体(日本国)にとっての最適として整合性が取れるものでは必ずしもないと感じた。そこに違和感を感じてしまうあたり、やはり自分は国で働く方が納得感を持てるのだと思いました。

→これは政府も同じだった。どこまでいっても、国という大きな想像の共同体の利益は、一元的に語ることができないというのが感想。国益というのを、どの程度、どの切り口で細分化するかの違いに過ぎないと思った。

各省庁は、それぞれ省益を背負っている。省益なんて明文化されているわけじゃないけど、関係の深い業界団体やカウンターパートがいて、それらから意見を吸い上げてばかりいれば、省ごとに目指す方向が大体決まってくるのは至極自然なことだと思う。例えば経産省なら、経済発展や経済界にとってメリットがあるか?という観点の比重が高まるし、外務省なら、G7諸国にその方針が受け入れられるか?友好国と足並みが揃っているか?という視点が重要になるだろうし、とにかく何に重きを置いて「国益」を判断するかというのは省庁によって全然違うと思う。

だからこそ各省庁間で対立が生まれることも多い。だけど私は、さまざまな省庁が自らの省益を背負い、多元的な価値が訴えられること自体は良いことだと思う。

その意味では、各省庁にいれば、「国」という主語を念頭に仕事ができるというのは確かだと思う。

ただ、一つに決まらない「国益」というものに、そんなにこだわりたいか?という疑問は、自分のなかでふつふつと生じてきている。
国には、当たり前だけど法規制があって、国単位で何かを動かすとなると、国として何かを発信したいとなると、本当に大変。

「国」というレベル感で物事を考えたいのかどうかは、自分でもよくわからなくなってきている。特に、毎日の仕事に忙殺されていると、毎日自分が「国」のために働いていると思っているわけではない。私はいま、自分の成長と職場の人たちのために働いている感覚が強い。

<キャリア・出世について>

やっぱり自分が思い描くかっこいい仕事っていうのは、国際的な場で「日本国」を背負って利益を代表している姿な気がする。いつかやってみたい。

→これには現状、あまり憧れを抱かなくなってしまった。これが原因なわけではないけど、国際部門の省内での立ち位置はすこぶる低い(基本ドメスティックな省庁なので)。なんなら、海外の時差を理由にメチャクチャな発注をしてきたりして、やや嫌われている。

多分どこの省庁も多かれ少なかれそうなのではないかと思うけど、やはりメインの法制度を所管している部署がその省の未来を担っている感じが強い。

しかも、法制度は国によって異なる部分が大きいし、社会システムも異なるから、いくら国際的な規制や取り決めがあるとしても、それを一元的に各国に適用するのは無理で、結局の裁量は各国にあるんでしょ、という雰囲気もある。私もそう思う。

ただし、これだけグローバル化が進んでいる現代、どんな仕事をしていても海外の存在を考えることは必須で、時に海外の法規制と日本のそれが抵触して問題になることもある。

それに、海外当局の実務者との会議や面談の機会は想像以上に多くて、国こそ違えど、同じ課題や同じ目標を抱えているもの同士が、目的を持って対話する機会が多いのは、とても面白いと思っている。たぶん、いわゆる「外交」はもっとハイレベルで、言葉の修辞や席配置のようなディテールに注目が集まり、裏方の準備や通訳者の采配がモノを言い、スポークスパーソンがそれを代弁するという類のものだと思う。こちらは、実務者自身が、自らの経験や知識から対話し、合意する場。私は、私自身が主人公となりうる場での外交がしたい。

だから、私が海外の目線を持っていることとか、英語が使えることはめっちゃ生きていくと思う。

ただ、もしマルチの「国際交渉」とか「国際会議」の場で、何か抜本的な決定がされる場があるのなら、そこに立ち会ってみたいという気持ちはある。なぜなら私自身、まだそういった場の価値を実感したことがないから。

なんならそういう場を日本人が回せるようにならないとダメだよね。
この点、英語力や英語で場を回す力は本当に重要だと思うし、アメリカやイギリスが国際社会の主役みたいな顔しているのは、英語が公用語だからなんじゃないかくらいには思っているので、ネイティブの人とも遜色ないくらい議論できる、安心感のある英語を目指して、英語力を磨きたいと思う。たまにそういう日本人を見かけることもあって、すごいなあと思うけど、往々にして「80年代の日系アメリカ人男性、日本の総合商社勤務」みたいなステレオタイプ的な人しか見かけないので(失礼)、私が、「英語のできる日本人」のステレオタイプを破りたい。

この省庁でなら、出世をしたいと思えた。日本の行政の質を上げるためには、外務省以外にも国際的な視野を持った職員が増えることが絶対に必要だし、なるべく意思決定に携われるポストについてみたい。

→出世かあ。大学生の時は、組織にずっと残って勝ち上がれる人がなんとなくすごい、みたいな感覚もあったけど、少し社会人をやってみて、人生ってそんな甘いものじゃないよなあと思うようになった。

どういうことかっていうと、例えば働き続けるっていうことは、その間に自分の病気とか、どうにもならない家族の都合とかがないことが前提となる。でもそれって本当に不可抗力だし、運によるところが大きい。だから、ずっと同じ組織で働き続けている人を、あたかもその人の生まれ持った才能を誉めるかのように、すごい、って両手放しに褒めちぎるのはやめたい。もちろん組織に残っていることが、運の結果だけではないことはわかってる。

むしろ私がすごいと思うのは、毎日悶々と自分の生きる場所について悩み、価値発揮のあり方はこれでいいのかと問い、行動し続けている人。その結果として出世があるのなら、ポストが変わるごとにどんどん思考や行動やパフォーマンスがアップデートされるのなら良いけど、私自身、出世とか、組織に残れるかどうか?を念頭に行動することは、今もこれからも絶対ない。

ただし、往々にして視野が狭く、組織の中でどう生きていくか、例えば次どこのポストに行きたいか(どこが楽でどこが大変か)、しか念頭にない人が多いことは確か。みんななんのために仕事してるのかね。こんなんじゃ行政の質は上がらないだろうと思う。

<女性としての働き方について>

この省庁でなら、ロールモデル的な霞が関の女性の働き方が作れると思った。しかもこの省庁自身がそれを強く望んでいることもわかりました。それを自ら体現することで、他の省庁を牽引していく一員になりたいと思いました。

→私の業界は明らかに女性が少ない。偉い人たちが出る会議や、業界団体との面談も、出席者は男性ばかり。

もちろん女性もいるけど、それなりの役職についている女性は、なんだか敬遠されているような感じ。男性が同じように振る舞っていてもそうは評価されないだろ、という気持ちにならざるを得ない。

それにやっぱりこういう職場だから、男子校のノリ?みたいなのも見かけたりする。仕事ができる女性=揶揄するor崇める、仕事ができない女性=距離を置くor腫れ物に触るように関わる という対応が自然発生的に生まれる現場も、何回か見た。

でも、これだけ女性が社会に進出するのが遅れている社会なのだから、そんな中活躍しようとしたら、ある程度のノイズは仕方あるまい、と思い始めた。

私含め、固定観念に囚われている人は、その人自身に非があるわけではないと思う。他の価値観を知らない、もしくは、これまでの人生で考えたこともないシチュエーションに出会っているというだけなのだと思う。

だから、女性だからということは忘れて、私という人間として、言いたいことを言い、やりたいように振る舞おう。そして、噂話や陰口一辺倒ではなく、面と向かって対話してくれる人を大切にしようと思う。

<政策決定プロセスについて>

政策決定のプロセスが非効率的なのは、それだけ難しくて複雑で関係者が多いというのもあって、ある程度仕方のないことなのかなと思った。
制度自体見直す余地があるところは、その問題意識を共有する人がいるはずだから、提言すればいい。変えていかなければならない。さらに、政策決定プロセスが非効率的だからと言って、じゃあそこに優秀な人がいくべきではない、ということにはならない。そんなことをしていたら、いつまでも変わらない。

→これは今読むとぶっ刺さる、が、この組織で問題なのは、ボトムアップで意見や改革提案を吸い上げる力が圧倒的に弱いことなのではないかと思う。ざ、「役職が人を作る」職場で、一年目・二年目のひよっこたちが何かを言っても、全く重みがなく、行動にはまず結びつかない。

尤も、責任ある仕事を集団的にやっているのだから、上層部や管理職に意思決定の力が固まることに仕方ない部分もある。だけど、ベンチャーやNGOで働いていた時に感じていた自己効力感のようなものは、一切ない。

おそらく、この職場で若手に求められているのは、自らの頭で考え、自発的に方法を切り開いて進めていく力や、潜在的な問題を声高に指摘し、仕事を作り出していく能力ではない。むしろ現状の霞が関では、そういうものは外部や上司から降ってくるものな気がする。

変なことを勝手にやらないでほしい、そんなことして批判されたらどうするんだ、と常に言われている気がする。

若手には、言われたことを淡々とミスなくこなし、待機という無の時間に文句を言わず、残業代の増加をモチベーションにやり過ごし、適度に周囲に気を利かせながら、従順に生きていくことが求められていると感じる。積み上がった超勤時間を見て、今月も頑張ったな、と思えるなら、なお良い。

私にはそういう従順さはなかったし、私の1時間は、霞が関が支払ってくれる1時間分の残業代なんかじゃ決して足りないと思っている(そういうふうに思う人がもっと増えてほしい)。何より、私は必要最低限のお金を稼ぐ以上には、金銭を労働の対価とは考えたくない。私は自分自身や社会に意義がある働きかたがしたいのであって、自分の人生の時間をお金に換えるために働いているのではない。もし時間でお金を買いたいのなら、もっとコスパの良いところで働きます。

そして、こういう現状に問題意識を共有できる 人も、想像より全然少なかった。もしかしたらいるのかもしれない。いや、いないな。でも、自分が置かれている状況を客観的に見て、問題を認知し、それを言語化しながら誰かに共有する、という力は、誰もが持っているものではないのだなあと実感した。

諸勢力の妥協点を見つける立場にあれること(実態はともあれそれを理想及び本来の役割とできること)が官僚の魅力だと思うし、これぞやってみたいと思うようになった。

→これはそうだと思う。自分ってこんなにも八方美人だったかしら〜とか、こんなにも人の顔色や志向性を伺う人間だったかしら〜と思うことがかなりある。でも、例えば同じ仕事であっても、どのようにそれを進めるかは、誰と、どのようなシチュエーションでやるかによって、全く異なる。こういうのは調整業務と呼ばれる。

いろんな関係者がいる中で、うまく言葉を選び、うまく間合いをとり、調整を続けながらスムーズに事を運べると、かなりの快感を得られる。そして私は、係員としてはこれが結構得意な方だと思う。めっちゃ下手な人もいる。そういう人が調整の主導者だと、本当に悲惨なことになる。私自身は、調整が上手い人をもっと見て学びたいという気持ちもある。これは、仮に転職をしたとしても、とても生きるスキルなのではないかと思っている。

私の志望する省庁の職員の方について尊敬している点は、バランス感覚がものすごいことです。何に対してもメリットデメリットを見いだすところが自分の志向性と似ているし、社会を至極客観的に捉えて、希望は持ちながらも楽観的になりすぎず、常に前提を疑い、自らの役割を変化させ続ける気概を持っているところがいいなと思った。
これらを全て兼ね備えている職員の人がたくさんいる職場は、同じ公的機関でも他にないと思います。

→最後に。働き始めてみて、実際みんながみんなこんな人じゃないなあ!という思いはあるけど、私がありたい姿は今でもこんな感じ。

今は、組織への期待と不満が両方あって、自分でもこの先どうしたいのかはわからない。それに、こうなりたい!という理想が見つかったとしても、不可抗力に左右されうるのが人生だと思う。
今はとにかく、ありたい姿や目標から何か逆算して行動したいという感じではない。だとすれば、日々つぶさに霞が関の住人を観察して、自分が好きなことは好きと言い、嫌なことは嫌だと言おうと思う。

大丈夫、この2年、存分に人生を生きてる!

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