出世は男の本懐か
「出世は男の本懐だ」
これは、映画『シン・ゴジラ』において、松尾諭演じる保守第一党政調副会長・泉修一台詞である。
映画の主人公である、長谷川博己演じる矢口蘭堂に対し、彼はこうも言う。
「そこに萌えんとは、君、なんで政治家になった?」
彼が内に抱える出世欲がよく表れた台詞である。
私の父も同様に「出世は男の本懐だ」と考えているのかどうかは定かでないものの、私が帰省するたび、出世について訊ねてくる。
「お前、ちゃんと上司には媚びを売れているのか?」
その内容、そしていつも同じ訊き方をされることに、私はどうにもうんざりしてしまう。
きっと、父はこう言いたいのだと思う。
お前すなわち私は、人とのコミュニケーションが苦手である。
特に、誰かにおべっかを使うようなことは大の苦手である。
そんなやつが社内政治を勝ち抜けるようには到底思えない。
けれど、いやだからこそ、せめて直近の上司ぐらいには媚びを売るぐらいのことはできてもらわないと困ると自分は考えている。
そこで訊ねたいのだが、お前はそれができているのか?
あるいは、それをやろうとしているのか?
さあ、どうなんだ――と。
この推測が当たっていると仮定した場合という話になるが、たしかに父の言わんとすることも、まったく分からないわけではない。
私は確かに、誰かにおべっかを使うのは苦手だ。
飲み会などで、歳上の人に美味い酒を飲ませるような「さしすせそ」を繰り出せるようなコミュニケーション能力はあいにく持ち合わせていない。
また、昇進などの人事の処遇を決めるのは結局「上」の人たちである、と考えれば、いわゆる「社内政治」がまったくの無意味とも言い難い。
また一般的には、出世をしたほうが懐に入る金が増える。
同じ会社で働くならば、賃金は少ないより多いほうが「マシ」である。
とはいえ、「媚びを売れているのか?」という問いは、あまりにもその醸し出される臭いが前時代的すぎて、だいぶ辟易してしまう。
「複雑に混ん絡がった社会だ 組織の中でガンバレサラリーマン」と桜井和寿が歌ったのは1994年のことだ。
それから15年以上が経った。
「失われた20年」は「失われた30年」になろうとし、「働き方改革」が叫ばれど、それがどこまで進んでいるのか実態の方は定かでない。
その意味では、当時と世相はあまり変わっていないのかもしれない。
とはいえ、「媚びを売れているのか?」は流石にどうなのだろうか、と私は思う。
果たして現代の会社組織においても、「出世は男の本懐」たり得るのだろうか。
「ちゃんと上司に媚びを売」っているか、という問いは有効なのだろうか。
あるいは、こんなことを訝しむ私のほうが「奇矯」なのだろうか。
様々な疑問が浮かんでは消え、クエスチョンマークがずっと頭の中を巡る。
私事だが、近々私は帰省をしなければならないらしい。
するとまた、繰り返し書いてきたあの問いをぶつけられることになる。
それが私は今から憂鬱で仕方ない。
媚びは上手に売れていないし、売るつもりもない代わりに、喧嘩も売ってはいないから、それで「チャラ」にしてほしいところなのだけれど――。
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