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「熊、好きなんですか?」

ある土曜日の夕方、大型書店からの帰りにガラガラの電車に乗った。

ロングシートに座ってふと視線を上げると、正面の席に座っている女性の姿が目に入った。

彼女が抱きかかえた袋から、大きな熊のぬいぐるみが顔をのぞかせていた。

私は、たまらなく彼女に話しかけたくなった。


女性はアンニュイな表情で虚空を見つめていた。車窓から外の景色を眺めていたのかもしれない。

彼女の抱きかかえていた熊のサイズは、ちょっとした登山用リュックサックと同じぐらいだった。少なくとも、私が持っていた19リットルのタウンユースのそれよりははるかに大きかった。

その熊のサイズ感やつぶらな瞳と彼女の表情のギャップがなんだか物珍しくて、私は彼女のことを見つめてしまった。


しかしこの時点では、まだ彼女に話しかけたいとは思っていなかった。

それが変わったのは、彼女の足元に置かれた小ぶりなリュックサックに、熊の顔をあしらったアクセサリーを見つけてからだ。

それを見て、私は彼女に「熊、好きなんですか?」と訊きたくなった。

そんなぬいぐるみを抱え、アクセサリーをつけた人はきっと熊好きに違いないからだ。


さて、妙な話に思われるかもしれないが、私はべつに熊が好きではない。

嫌いではないが、好きとも言えない。「普通」だ。

だから私は、先述のように話しかけることで、「熊好き」という共通項を足掛かりとして彼女と仲良くなりたいわけではなかった。

というより、そもそも私には、彼女とどうにかなるつもりなどなかった。


街中で見知らぬ異性に話しかける、と言うとナンパという行為が連想されるだろう。

しかし私の中の「話しかけたい」は、それとはまったく異なっていた。

「あの、すみません。あのー、熊、好きなんですか?」
「え?」
「いや、あの、それ」
「あ、熊、はい。好きです」
「そうですか」

このような一連のやりとりができればそれでよかった。

私は、自分の推測が当たっているか、ただ確認したかったのだ。


彼女からすれば、見知らぬ男から話しかけられる時点でナンパと同様に不快であることには変わりないだろう。

いや、むしろナンパのほうがまだマシと思うかもしれない。

急に熊好きかどうかを確認してくる男は意味が分からない。

さらに、確認だけしてそのまま去るのは、もっと意味がわからない。

話しかける側の意図が読めないのはホラーだからだ。

まあ、変わった切り口からナンパしてきた男が、すんなり諦めて去っていっただけと受け取るだけかもしれないが。


今回のケースでは女性だったが、私は、男性相手にも同様に「訊きたいなあ」と思うときがある。

たとえば電車内で、偶然ある特定のラジオ番組のグッズTシャツを着ている人の正面に立ったときとかに。

しかしその場合もやはり、確認がしたいだけなのだ。


今のところ、その確認を実践に移したことはない。

熊のぬいぐるみの彼女にも話しかけず電車を降りた。

それにしても、どうして大したコミュニケーション能力もないのに、確認したいなんてことを思うのだろうか。

あるいは、ないからこそそんなことを思ってしまうのだろうか。

そんなことをしても互いに大して益がないことは私とて了解済みなのに。

それが我ながら不思議で、だからこそ、いつか不意にやってしまうのじゃないか、と思ってときどき怖くなる。

これについての仮説は、まだまだ立てられそうにない。



【今回の一曲】

フジファブリック/熊の惑星(2007年)


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