見出し画像

怒りの速度が足りない

私は、いつもすぐに怒ることができない。

「その発言はどうなのだろう?」

そう思う機会があったとしても、いつもそれは、その場ですぐに怒りに変わってくれない。

それが怒りに変わるのは、たいていその出来事が過ぎ去ってからのことだ。

そのことが、私はいつももどかしく思う。


ある飲み会でのことだ。

それは、ある事業部の主催するイベントを私たちの所属する部署が手伝ったことに対する慰労を趣旨として開催された。

その中で、その事業部に所属する女性社員が私の同期であることが話題に上がった。

その飲み会には男性社員しか参加していなかったが、だからこそのノリだったのだろう。

その事業部の社員の一人が、その同期社員について「アイツのこと、女として見れるか?」と言った。

それを聞いた周囲の人は「確かにな」と笑った。


彼女は、自身のいる事業部について、女だからどうこうと言われないので良い、と口にしていた。

彼女がそれをどのような思いで口にしていたか、私から知る術はない。

ある種の強がりだったかもしれないし、あるいは心からそう思っていたのかもしれない。

だがいずれにせよ、そんな彼女のことを「女性として見れるか」と問い、それが笑い話として成立してしまうことは非常に不愉快だった。

彼女の職能と、男性が彼女を恋愛対象や性的関心の対象とすることに、まったく関係はないのだから。


それからしばらくして、彼女は転職した。

上記の会話自体を彼女は知らなかっただろうが、そのような会話が成立してしまう場であることは、おそらくその決意を後押ししただろう。

そんな会社で消耗する必要はないし、それはとても正しい選択だと思った。

しかし、その場で不愉快に感じていた私自身は、まだ会社に居残り、そして辞める算段もまだついていなかった。そして私は、そのほかの多くの不愉快なことに目をつぶりながら、今もその会社でのうのうと働いている。

私は、それを問題だと思っている。


辞めること自体は簡単だ。

退職届という名の三行半をいつも懐に忍ばせ、腹が立ったときそれを即座に出してしまえばいいのだ。

しかし実際には、私の怒りは、瞬間湯沸かし器みたいには沸きあがらない。

おや? とモヤモヤしたものを抱え、そして自宅に帰ったころ、やはりあれはおかしかっただろう、と腹を立てるのだ。

しかし、それではもう後の祭りである。

腹を立てるべき相手は、当然もうそこにはいない。


本当に腹が立ったなら、本当に言うべきだと思ったなら、その場で「それはかしいだろう」と言うべきなのだ。

「あいつを女として見れるか?」と笑いながら訊いてきたあの人に――。

ストレスで会社に来れなくなった人に、「そんなんだからおなかが痛くて家から出れなくなるんだよ」と笑いながら言ったあの人に――。

それなのに、私はその不愉快さを「いったん持ち帰って」しまう。

だから、一人でその出来事についてウジウジと悩むことになる。

自分はまともだ、というポーズをとるばかり――まともなことを考えている、と自分自身に対してかっこつけるだけで、義憤も正義感も、何の役にも立たない。


不愉快さと怒りを結びつけることは簡単なはずだ。

しかし速度が出ないのは、私がそこで逡巡してしまうからだ。

変な空気になって、お前が刺されるだけだぞ。

そんなふうに言えるような立場なのかよ。

なにか言ったとして、それで何かが変わるかよ。

様々な、直情を堰き止める声が身体の内側から湧いてくる。

すなわち、私もまた保身のことを考えているだけなのだ。


私には、怒りの速度が足りない。

後になって、ウジウジと悩んだり、一人腹を立てて荒れたりする。

それは、ちっとも立派なことではない。

むしろ恥ずべきことであるとさえ思う。

私は、怖がりだから怒れないのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?