「幸せになりたいと思いませんか?」
見知らぬ誰かに話しかけなければならないとき、どんな人に話しかけるだろうか?
たとえば道を訊ねたいとき、アンケート調査に協力してほしいとき、サークルの新歓チラシを配りたいとき――。
思い浮かべる人物は、各シチュエーションでそれぞれ異なるだろうが、総じて言えばそれは「断らなそうな人」になるのではないだろうか。
話しかけるのは目的――道案内してもらうとか――を達成するためだ。
だから、依頼を断りそうな人にはわざわざ話しかけない。
裏を返せば、街中などで見知らぬ人に話しかけられた人は、「断らなそうだな」と思われたということだ。
あるいは「なめられた」と言ってもいいのかもしれない。
「研修の一環で名刺交換してまして――」
怪しげなスーツ姿の人に、何度ターゲットにされたか分からない。
人に話しかける理由には、なにかを依頼する以外のパターンも存在する。
なにかを提供したいと思っている、というパターンだ。
安いですよ、無料ですよ、お話だけでもいいので――。
甘言と共にそれらは近づいてくる。
このときのターゲットは、「断らなそう」かつ「落とせそう」な人だ。
「落とせそう」な人とはすなわち、チョロそうだったり、弱そうだったり、弱っていそうな人のことである。
そして「提供したい」ものの代表例は、詐欺まがいの健康食品や美術品とか「救済」とかである。
あれはたしか就職した年のことだったと思う。
私はその日、一人でショッピングモールに来ていた。
主目的の買い物を済ませ、このまま買えるか、ついでに映画を観て帰るか、モールに入っているシネコンの前で逡巡していた。
そのとき、「あの、すみません」と声をかけられた。
声のしたほうを向くと、そこには私と同世代ぐらいの男性が立っていた。
「はい。なんですか?」と私は訊ねた。
男性は「はい。えーと、あのー」と少々口ごもってから途端に目を輝かせ、「幸せになりたいと思いませんか?」と訊ねてきた。
言わずもがな、それは宗教か怪しい自己啓発セミナーへの勧誘であった。
私はこのあと「もしよかったら、今度僕たちの集会に――」とか「全然怪しくない勉強会みたいなもので――」とか言われるに違いなかった。
そう思うと、私はこの男性に対して憤るのを抑えられなかった。
私は、この一週間前にも、別のショッピングモールで同じように話しかけられていた。
「あの」と、同様に同年代の男性に話しかけられ、宗教団体を名乗るとともに「集会とかご興味ありませんか?」と訊ねられたのだった。
「いえ、結構です」と断り、私はその場を後にした。
この男性が一週間前の男性と同じ宗教団体の人かどうかは不明だが、仮に同じだったとして、ロックオンされていたと疑うのは「考えすぎ」だろう。
だから、これは偶然に過ぎない。
しかし偶然だとしても、それはそれで、私にとって苛々しいことに変わりはなかった。
それはすなわち、私がみすぼらしくて、「救済」を求めていそうで、カモにできそうに見えたということを意味しているからだ。
お前らには、私がそんなに不幸そうに見えるのか。
私がそんなに、「落とせそう」に見えるのか。
宗教の「有効性」などどうでも良かった。
私はただ、短いスパンで、全く異なる2人から「こいつ、不幸そうだな」と思われたことが、悔しくて、悲しくて、そして腹立たしかったのだ。
「幸せになりたいと思いませんか?」
そう訊ねられて、私は「思いません」と答えた。
男性の唖然とした顔が見えた。
彼が何も言えない間に、私はその場から立ち去った。
大して急ぎ足でもなかったが、彼が追ってくることはなかった。
このエピソードは、武勇伝になりえない。
話しかけられた時点で、私の一方的な敗北だからだ。
あらゆる人から「断らなそう」に見えること。
あらゆる人から「不幸そう」に見えること。
男性の「声掛け」は、一週間前の話と併せ、その証明に他ならなかった。
「チョロくない」に私はなりたい。
駅に向かって足をすすめる私の口の中には、ほろ苦さばかりが残っていた。
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