新しい恋を始めました
学生の頃は、私もサークルというものに所属していた。
ある春の日、見たことのない先輩がサークルにやってきた。しばらく旅に出ていたから、と誰かが言った。
先輩は旅人だった。
私はどういうわけかその先輩に気に入られていた。
私の同期には、玲奈という女の子がいた。口の大きな女の子で、彼女もまた先輩のお気に入りだった。
先輩は、キャンパスから駅までの、バスで20分ほどかかる道のりを歩いて帰るのが趣味だった。
私たちはその趣味に付き合うようになった。
だから、一緒にいる時間も必然的に長くなった。
その日も、私たちは駅の方へと歩いていた。
キャンパスの近くに部屋を借りていた玲奈も駅まで歩くこと多かったのだが、その日彼女は珍しく、道中のスーパーで買い物をして帰る、と言った。
玲奈は店に入るなり買い物かごを手に取り、慣れた足取りで生鮮食品売り場に向かって歩きだした。
テクテクと歩みを進める彼女を離れて追っていると、先輩がこう訊ねてきた。
「お前、玲奈のこと好きか?」
それはいつも通りを装った、不自然に間延びした声だった。
「いいえ」と私は答えた。
先輩は少し間をおき、「そうか」と言った。
その声もどこか演技がかって聞こえた。
玲奈が買い物を済ませて家に帰っていった。
私と先輩は、二人きりで駅まで歩いた。玲奈の話は一切しなかった。
先輩はその夜、サークルのブログに「新しい恋を始めました」と書いた。
深夜、同期の安川という男から電話があった。
「ブログ読んだ?」と彼に訊ねられた。
「先輩の?」
「うん。あれさ、どういうこと?」
「あれ、玲奈だよ」と私は答えた。
「やっぱりそうか」と安川は言った。
「玲奈のこと好きか?」
それは、先輩自身の恋心の表明だった。
俺は玲奈が好きだ。お前さえ良ければ、俺は彼女を狙う――。
まるで、女子マネージャーに恋した男子野球部員のやりとりだった。
しかし、先輩の恋心は、安川が「やっぱり」と口にするほどにはそもそも周知の事実だった。
「しのぶれど」――小倉百人一首にも収録された有名な恋の歌だ。
その日、先輩はしのぶのをやめた。
ブログで宣言されてしまっては、もはや「ものや思ふ」と問うまでもなかった。
先輩は、ブログの件に始まり大いに暴れ回った。それは嵐みたいな恋だった。
「あれ、やばいよなあ」と安川が言った。
私たちはハラハラしながらその恋を見ていた。
先輩は熱心にアプローチを仕掛け、私たちはそのたびに気を揉んだ。
しかし、彼女には、その気がまったくないようだった。
先輩のアプローチは、ことごとく躱され続けた。
しばらくして玲奈に彼氏ができた。当然それは、先輩ではなかった。
彼氏が、玲奈の部屋に足繁く通うようになった。
その頃を境に、先輩はパタリと姿を見せなくなった。
先輩はふたたび旅人になった。
かくして、とある恋が潰えた。玲奈もその彼氏と別れた。
終わってみれば、なんてことはないよくある恋の話だ。
「新しい恋を始めました」
その言葉は、今もまだブログのとある記事に刻まれている。
それは、とある恋心の墓標である。
【今回の一曲】
スピッツ/君が思い出になる前に(1993年)
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