ドモアリガトインターネット
小学生の頃、空気を読むということがどういうことなのか分からなかった。
「空気読めよ」と言われても、そんなものどうすれば「読める」のか見当もつかなかった。
だから私はいつもシーンに合わせた適切な言葉を選べず、会話を白けさせていた。
きっと周囲から見れば相当扱いづらい人物であったことだろう。
そして実際、私は集団のなかで孤立していた。
私がインターネットと出会ったのは、そんな小学校六年生の頃だ。
父が新しいデスクトップPCを購入したことで、使わなくなったWindows XPのノートPCが、お下がりとして私のものとなったのだ。
当時は中学受験を控えていたのだから、思えばPCを与えるタイミングとしてはなかなかに「攻めた」時機であったと思う。
兎角、私はかくしてPCを手に入れ、インターネットに接続できるようになった。
田舎育ちで狭い世界しか知らない私にとって、一つの端末から世界に繋がれる体験はとても刺激的だった。
私がまずのめり込んだのは、コンシューマゲームに関する掲示板で大喜利に参加することだった。ハンドルネームは、たしか「陣内」――当時は「エンタの神様」全盛期であった――だったと思う。
その掲示板で、どのような投稿に「面白い」とポイントが付くのか、すなわちどのような回答が「面白い」とされるのかを学んだ。
そして自分も投稿するなかでポイントを貰い、自分が面白いことをまったく言えないわけではないのだ、という自信を得ていた。
それでも、私はまだ「空気を読む」の意味がよく分かっていなかった。
面白いことを言える自負だけはあるのに、それを実生活のコミュニケーションでどのように活かせばよいのかが分かっていなかったのだ。
だから、無事に受験に合格できた中学に進んでも、私はまだうまく集団に溶け込めずにいた。
私が「空気を読む」の意味を、体感的に知ることになったのは、遅まきながら中学三年生の夏休みのことだった。
私はその頃、とあるゲームをメインテーマとした個人サイト――当時はそのようなサイトが無数にあった――のチャットに入り浸っていた。
チャットでは、本当に「会話」の言葉が、時系列で可視化されていた。
また、どの発言で会話が活性化するか、また不活性化するかがリアルタイムで如実に現れた。
このシステムを通じて、私はようやく「空気を読む」ということが、その場の「文脈」に即した言動をすることなのだと理解するに至った。
そしてその夏休みを経てようやく、私はあるシーンではどのように振る舞うのが正しいとされるのか――それを守れないときは勿論幾度もあったが――思考することができるようになったのだった。
それ以外にも、インターネットを通じて学んだことはたくさんある。
たとえば文章の書き方もそうである。
中学に入った頃から読書はするようになっていた。しかし、文章の巧拙は何より、自分自身で書いてみた経験に左右される。
その点で、ブログという文化に書き手として触れたことによって、私の文章を書く力は――無論、稚拙な部分は大いにあるのだが――養われたといっても過言ではない。
それに――これは著作権侵害の動画であるため大きな声では言いづらいが――、当時流行っていたMAD動画から、私は多くのアニメと音楽を知った。
また小劇場演劇の世界があることも、私はインターネットを通じて知った。
今の私を形作るものの多くを、私はインターネットを通じて学んだ。
だから、今の私があるのはインターネットのおかげであると言っても、きっと過言ではないだろう。
少なくとも私は、そうであると堅く信じている。
当時と比べて、インターネット環境が大きく変わった感は否めない。
SNSの流行と個人サイトの死。
テキスト主体から画像・動画メディア主体への移行。
信頼に足らない情報の跋扈。
他にも、その変化を表す言葉は挙げればキリがないだろう。
もうインターネットに無邪気な夢を投影することは、到底不可能である。
少なくとも2010年代以降は、そのことが露わになっていった過程と評してもいいだろう。
インターネットには、良いところもあるが、それと同じぐらい、あるいはもっと多くの悪い側面がある。
それでも、私の10代がネット文化の多大なる影響下にあったことは、今更否定し得ないことである。
だから、それはノスタルジーに過ぎない感情であると糾弾されても仕方ないかもしれないが、私はこう言い張ってみたいのだ。
私はインターネットを愛している――。
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