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Switchの値段にビビって泣いて帰った

年末年始は、ただひたすらに寝て過ごしていた。

いわゆる「寝正月」というやつだ。

そして、起きている間はテレビを見て過ごすような、まあそんな自堕落な感じだった。


それについて、後悔をつらつらと言葉にしたいわけではない。

もっと精力的に動きべきだったなと思うわけでもない。

しかしまあ、その過ごし方の後遺症というべきなんだろうか。

仕事初めからこの方、どうにもやる気が湧かなくて困っている。

時間の経過がいたずらに遅く、気分がずっと沈沈としているのだ。


この「気分が沈沈」とする症状については、年末年始にも現れていた。

その際には、ただ横になっているばかりで、悪い想像ばかりが頭のなかをぐるぐると回っているような状態だった。

あの社員は、年始はいつ初めて声を荒げるだろうか、とか。

あの人は、いつくだらない話をして仕事の邪魔をしてくるだろうか、とか。

まあ、そんなネガティブなことばかりを考えていた。

このことについては、休暇の内から頭を悩ませていた。


オードリーの若林が、著書『社会人大学人見知り学部 卒業見込』において「ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ」と書いていた。

先ほど、後悔をつらつらと書くつもりはない、と書いたが、一つだけ後悔することがあるとすれば、私は「暇な時間を過ごしすぎた」のだ。

「暇」を過剰に慈しんでしまうのは、10代の頃からの私の悪いクセである。


しかし、「没頭」と書くは易いが、行うは難い。

いったい何に没頭すればよいのだろう?

生憎、私は仕事に没頭できるほど、自身の仕事を愛せてはいなかった。


仕事の対義語によく挙げられるのは「趣味」だが、私の趣味である読書や音楽鑑賞などは、いずれもたしかに没頭するに足るものだが、同時に邪念の侵入を許しやすいものであるに感じられた。

例えば、ある本を読んでいる際に、思わぬフレーズから不意に現実のことがフラッシュバックするみたいに脳裏をよぎるみたいな――。

であるならば、これは上記の「没頭」には不十分なのだろう。


そこで私が思いついたのは、普段やらないことに挑戦することだった。

もっと身体を動かしたり、熱中するような――。

しかし、ボルダリングとかジムとか――そういう何かの「体験」に行くのは、最近の状況を鑑みると難しそうに思われた。

一人で出来て、簡単に「没頭」を提供してくれるもの。

そう考えて私が思いついたのは、コンシューマーゲームをすることだった。


ということで、三が日の終日、私は近くの家電量販店に向かった。

入り口にはご丁寧に「Switch在庫あり」と掲示されていた。

私は意気揚々とゲームのフロアに向かった。

Nintendo Switchはすぐに見つかった。

「ご購入の際はこちらの札を持たず、直接レジにお越しください」

そう注意書きされた紙には、「税込32,978円」のシールが貼られていた。


店側の名誉のために言うが、これは決してぼったくりではなかった。

メーカーが出している定価であり、高くも安くもない。

しかし、私はこの価格を見て、思いっきりビビってしまった。

私がゲームを買おうとしたのは、いわば「賭け」であった。

最近全然やっていないけれど、ゲームを購入して、やってみれば、もしかしたら「没頭」を得られるのではないか、と。

そして、実際に「没頭」できる保証はどこにもなかった。

その「賭け」に対しては、その定価は見合っていないように思えてしまったのだ。


いや、高いって。いや、高いって無理よ、無理。

これにソフト代もかかるわけでしょ?

あ、そういえば、どのソフト買うのかとかも全然考えてなかった!

あー、無理だ、これ。無理だよ、買えっこないって、こんなの――。

意気揚々とフロアまで向かっていたはずの私は、すっかりへっぴり腰になっていた。

そして結局なにも買わないまま――大人だから実際には泣いていないけれど、心のなかでは――号泣しながらその量販店を後にした。


仕事初めからこの方、どうにもやる気が湧かなくて困っている。

時間の経過がいたずらに遅く、気分がずっと沈沈としているのだ。

この原因に、上記の「敗北」と「撤退」が関係しているかは分からない。

兎角、私はNintendo Switchの価格にビビって買えなかった。

だから私は、なにか「没頭」できるものを探さないといけない。

夜の散歩も邪念の入る余地しかないし、やめたいのだけれど、結局それしかないだろうか。やめたいって話も書いているんだけどな……。



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