父のとんかつ
センター試験からおおよそ一週間経ったある日の夜は、母が不在だった。
高校はもう自由登校になっていたが、家に居たくなかったので、私は自習のために開放されていた高校の教室に毎日通っていた。
その日、家に帰ると、父が「今日の夕飯は俺が作る」と言った。
父はその日、とんかつを出してくれた。
なんてことはない。近所のスーパーに売っているとんかつを、家で再度揚げて温めたものだ。
「受験に勝つ!」
父は、陽気な声で、手垢にまみれた冗談を言った。
私が出願した大学は、センターリサーチでD判定だった。
合格可能性判定はAからEの降順で可能性の高さを表していて、「D」という判定は、合格のためには二次試験での相当な挽回が必要であることを示していた。
父の冗談は、そんな窮地に立つ私を励したい気持ちから出たものだったのだろう。
その得意げな顔にほだされ、私はとんかつに齧りついた。
そのとんかつは、冗談では済まないくらい、油でべっとりしていた。
最後、油の温度をもう一段階上げなかったのかもしれない。
キッチンペーパーで油を切っていなかったのかもしれない。
今となっては、その理由は推測の域を出ないが、とにかくそのとんかつは、一口食べただけで胸焼けを起こすほど油っこかった。
私は一度箸を置いた。
とてもじゃないが完食できる気がしなかった。
私は父の顔を見た。
父は満面の笑みで、なんならば若干のガッツポーズつきで、「受験に勝つ!」と繰り返していた。
もはやそれしか言えなくなったロボットのようだった。
「食べられそうにない」なんて言える雰囲気ではなかった。
父は私に、このとんかつを食べてほしいに違いない。
この験担ぎが、私の合格につながることを期待しているに違いない。
そう暗示をかけながら私は必死でとんかつを食べ続けた。
その間にも、どんどん胃のむかむかは強くなっていた。
泣きそうになりながら、私はセンターリサーチの結果を受け取った日の夜のことを思い出していた。
リサーチの結果を受け取った日の夜、私は父に、リサーチの結果を見せた。
翌日に予定されていた母と担任を交えた三者面談の前に、仕事で出席できない父にも事前に承諾を得ておこうと思ってのことだった。
結果は、第一志望の大学がD判定、第二志望がB判定だった。
私は第二志望の大学を受けるつもりだった。
浪人はしたくなかった。それに第二志望も悪くない大学だった。
少なくとも当時の私には、それが現実的な落とし所に思えた。
しかし、父はこれに強固に反対した。
その理由が、納得のいくものであればよかった。
たとえば、就職に弱いとか、進路を決める理由が弱いとか。そういう「親が反対するときに言いそうな理由」ならば。
父は「BとDがどう違うのか分からない」という、まさかのワン・イシューの戦いを挑んできた。
私は、上述した、合格可能性判定というのは――という説明を幾度となく繰り返し行なった。しかし、「分からない」という主張は覆せなかった。
翌日、父は会社を休んで三者面談に乗り込んできた。
そしてその場で、「お前、第一志望の大学を受けるって言ってたよな?」と、事実と異なる主張を繰り出す暴挙に出始めた。
これには担任も焦り、「お前、家族でちゃんと話し合って、もう一回後で面談の続きをやろう」と言った。
だが、私からすればこの言葉が出た時点で負けなのだった。何しろ、昨晩すでにワン・イシューで押し切られたばかりだったからだ。
母は「お父さんは、ああ言い出すと聞かないから」と諦めた様子で言った。
数十分後、私は担任に「第一志望の大学を受ける」と告げた。
「受験に勝つ!」
そう陽気に言う父にそもそも敗れ、私は絶望的な戦いに挑んでいる。
その戦いへの験担ぎを、父の揚げたとんかつでしている。
そう思うと、自分がとんだ道化に思えてきて、私のむかむかはよりいっそう強さを増していった。
流れ出しそうな涙と一緒に、私はとんかつを飲み込んだ。
父のとんかつを食べた翌日以降、私は案の定強い胃もたれに襲われた。
医者から処方された胃薬を飲んではいたが、それでもコンビニのおむすび一個を食べるのがやっとだった。
その胃もたれは、その年の夏頃まで続いた。
不合格になって浪人したことを、とんかつのせいにしたいわけではない。
出願校決定から受験当日までの経緯がどうであろうと、不合格自体は私の学力不足のせいだ。
それは承知しているが、それでも今なお、もやもやとした気持ちが消えることはない。
あの日、それでも第二志望の大学を受けていたなら――。
あの日、父のとんかつを食べなかったら――。
さまざまな「if」は、今も脳裏をかすめる。
まったく愉快なものではないけれど、これが父の料理に関する一番の思い出である。
【今回の一曲】
Thee Michelle Gun Elephant/ベイビー・スターダスト(2000年)
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