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それに対して、私は怒りを覚えない

「ラインが返ってこないと腹立ちませんか?」

とある研修の際に、講師が受講生全体に向けてそう訊ねてきた。

それは「みなさんも、雨が降ったら傘を差しますよね?」ぐらいに、当然コンセンサスの取れるであろう事柄を、わざとらしく確認するみたいな訊き方だった。


エンジニア職の社員に離職者や休職者が増えてきたことを理由として、私の勤める会社でエンジニア職全員を対象としたメンタルヘルス研修が開講された。

テーマは「ストレスを溜めないための考え方」。

研修は少人数制かつ予約制である、複数回開催するのでいずれかに参加すればよい、座学とワークの両方の形式で行われる、と社内のポータルサイトに掲示された。


私の予約した回の日となった。

会場となる小さな会議室に入ると、使用するスライドとワークシートを印刷した冊子を渡された。

研修が始まると、まずは事前に言われていた通り「ストレスを溜めないための考え方」について説明された。

曰く、それは受け止め方を変えてみればよいのだ、ということだった。

不幸な出来事は自分を攻撃しようとして引き起こされたものではないとか、意地悪をされているわけではないとか――。

なんとも抽象的だったし、それで離職や休職という「問題」が解消されるとも到底思えなかったが、兎角それをやるらしかった。

まあ会社でやるこういう研修なんて、どうせこんなものか、と思った。


座学のためのスライドを何枚かめくったところで、講師が「では、ここでワークをしてみましょう」と言った。

そして表示されたスライドに書かれていたのが、冒頭で挙げた質問であった。

「ラインが返ってこないと腹立ちませんか?」

前述の通り、講師はこれを「当然のことですが改めて確認しましょう」という前置きを含意したような口調で読み上げた。

そして、講師はさらに続けてこのように言った。

「例えばね、好きな女性に送ったとして、返ってこないと腹立ちません? もう渾身のラインですよ」

それを言うときの更新のテンションたるや、これなら怒るだろう、どうだ! そんな会心の一撃を繰り出すかのようだった。

ワークシートは、腹が立つというBeforeの自分の感情と、「考え方」を身につけたAfterの考えを記入するようになっていた。


しかし、私はどうにもそれに首肯できなかった。

その際に「返せよ!」と、特定の誰かに腹を立てるイメージが湧かなかったのだ。その場合、私は「ああ、スベってたんだろうな」と考えるだろうな、としか思えなかった。

いや、例えば、待ち合わせ時間に相手が現れず、その際に送ったラインにも反応がなければ腹を立てるかもしれないが、それはあくまで「待ち合わせ」という状況があってこそ生じる怒りであり、講師の言うような普遍的な怒りとはやはり異なるように思われた。

研修ではその後、「相手が忙しかっただけかも」と考えると、怒りも収まりますよね? というアドバイスが伝えられた。

相手の状況を慮ること、それが結果的に「ストレスを溜めないための考え方」につながる、というメッセージとともにそのワークは締め括られた。


この話をすることで、私は自身の「寛容さ」をアピールしたいのではない。変わり者であると誇らしげに語りたいわけでもない。

私が気になるのは、感情の感度や反射速度、そして期待値の問題である。

つまり、私自身にどうにも欠けているように思えるものについての――。


「なんで返ってこないんだ」

その怒りには、相手は当然返信をくれるだろう、という期待がある。

そして、他者から「返信がない」という状況について聞かされたときに、即座に「それは腹が立つ」と同意し、そのチャット相手(の反応の悪さ)こそ怒りの向き先であると同定するものとされている。

少なくとも――資料にてそれが例示されていた以上――資料作成にあたった人々は、それがごく一般的な反応だと認識していることを意味していた。

そして、翻って考えれば私の反応は、一般的な――言い換えれば望ましい――それに悖るものであった。


私はべつに怒りたいわけではない。

ただ、一般的な「怒り」に至らないことに、どうにも恥ずかしさのような感情を抱いてしまうのだ。

そういうとき怒れないもんなあ――。

「怒り」は「できる/できない」の問題に転化され、「できない」の否定性がコンプレックスとして私自身に伸し掛かってくる。

なんだか、そんな些細な怒りでさえ、感じられたほうが人間的に「強い」んじゃないだろうか――そんな抽象的で飛躍のある考えも頭をよぎる。


繰り返しになるが、私は怒りたいわけではない。

それはやはり――研修のテーマが示していた通り――ストレスフルだし、また誰かに利することが何もないからだ。

しかし同時に私は、怒りを覚えるようでありたい/ありたかった、とも思うのだ。


そうでない自身を、なんだか不具者であるかのようにさえ感じてしまうこと。

「一般的」へのコンプレックス。

もし私が「ストレスを溜めないため」に何かすべきことがあるならば、まずはそのコンプレックスと向き合うことなのかもしれない。


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