星野源の恋って感じじゃない

「あ、恋ダンス」と先輩が言った。

誰かが、カラオケで選曲に困って星野源の「恋」を入れたときのことだ。


「恋」は、しかし、星野源の曲という感じがしない。

たしかに、ファンク的要素を日本的に解釈していることや、どこか踊れること、ポップスであることは星野源的であり、また演奏チームと共に作り上げる彼の作品のサウンドである。

今聴き直しても、とても良い曲だと思う。

しかし、やっぱり「恋」は「星野源の曲」じゃない。

あれは「2016年の大ヒット曲」であり、「新垣結衣のダンスの曲」なのだ。


売れすぎた曲は、広く人口に膾炙する反面、どこかその人のイメージを離れて聞こえてしまうことがある。

RADWIMPSの「前前前世」は『君の名は。』の曲だ。

そういった曲は、新鮮さが損なわれるのも早いのじゃないかと思う。

何度も耳にしてしまうからだろうか。

経過した時間は同じでも、なんだかより古く感じてしまう。

私のなかで「恋」は、「ちょっと前に大ヒットした曲」なのだ。


この「ちょっと前」がとても厄介だ。

というのも、その感覚は「懐かしいなあ」という感情に至るには少し弱いからだ。

サンボマスターの「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」みたいなゼロ年代の楽曲ほどはノスタスジーを引き起こせず、「ちょっと古いなあ」という感情が勝ってしまう。


年齢を重ねるにつれ、「え、あれがもうそんなに前なの?」と驚くことが増えてきた。これからもっと増えるのだろう。

その「そんなに前」であることへの感度の低下が、かつて両親や学校の先生に感じた「ダサさ」への道のりなのじゃないかと思える。

もう古いなあ、と思っている冗談や引用を、さも最新トレンドについていけているだろう、という顔で提示される「ダサさ」――。


「ちょっと前に大ヒットした曲」はこの「ダサさ」の呼び水になりやすい。

「ちょっと古いなあ」になるのが、先述のように早まるから。

なまじ流行として頭に強くこびりついてしまうから。


年齢を重ねてきた私にとって、「ダサさ」はもはや自分と隔絶されたものでなく、あり得る自身の未来の話だ。

私としても、それを認めたくないわけではない。

また、どのくらい前であるだのを気にするのは野暮であり、所詮は内輪のカラオケなのだから、新しいだの古いだの気にせず盛り上がれたほうが勝ち――そう言われたら、ぐうの音も出ない。

それでもこの「最近の曲」には、くすぐったさを禁じえない。

これはきっと自意識の問題なのだ。

この歳になってもまだ大事に抱えている、無粋極まりない自意識の――。


二胡が特徴的なイントロが流れ始めた。

「あ、恋ダンス」と呟いた先輩から「いけるな?」という目配せがあった。

別の先輩が、よれたジャケットを脱いでマイクを持った。

私たちは、出鱈目な振りで踊った。

「恋ダンス」の「最近の」、「ちょっと前に大ヒットした」曲を踊った。


私は「ダサさ」に反応してしまうダサさを捨てることはできるのだろうか。

そんなことを、私は踊りながら考えた。

モニターの中の星野源は、煩悶や懊悩などなさそうな軽やかなステップを踏みながら歌っていた。


私は、照れくさくなって笑った。

歌ったり踊ったりする先輩たちのことが眩しいような、でもまだもう少しそうはならないでいたいような、そんな気がした。


【今回の一曲】

星野源/恋(2016年)


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