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「不快」にこそ新しい自分を開く可能性があるのではないか?「違和感」が大事ではないか?

2021年9月19日、越境人材の祭典「インタープレナーサミット」のお手伝いをしていました。自宅から配信を見ながら14時から20時20分までぶっ通し。SUNDREDのTwitterアカウントでリアルタイム投稿をやってみました。

投稿数は100くらい、たいした数じゃないかもしれないけど自分なりに頑張ってみた。言っていることを咀嚼して言葉に変換するって難しい。ライトニングトークは皆さんプレゼンが早すぎて追いつけなかったので、早々にここは諦めた。どこまでイベント登録者数などの成果に結びついているのか?は正直自信はない。アナリティクスの数値は低い。


40代後半だったころの私。

数年前、まだ40代後半だった頃。あれ?もうすぐ50じゃん。
やべー、このままじゃやべー。
何かよくわからないけど、絶対やべー。

って事で、まず社外での行動量を増やしてみた。色々なイベントに顔を出して名刺交換やFacebookで繋がったり、Yentaやったり、noteを沢山書いてみたり、個人でもイベントを毎月開催してみたりと。

気が付けば、勝手にあると思い込んでいた「壁」なんか無いって気が付いた。ほんの少しの勇気で「越境」ができた。私はできていると思っていた。
「越境」という言葉に「心地よさ」も感じていた。

「対話と越境」について考えた一日が終わって

「インタープレナーサミット」のセッション。全部しっかり聴いた。(Twitter担当だから当たり前ですが)8割くらいは同じ感覚、私にとって「心地よい」感覚だった。

でもね、モヤモヤ残ったんですよ。

「違和感」のある感覚
「それできていないよね?って言われた感覚」
「何となく誤魔化していた、耳が痛い感覚」

だから投稿したTwitterと手元にある殴り書きのノートをみながら整理。「対話」とは何か?「越境」とは何か?

対話と越境

「対話」で歩み寄る

そもそも、なぜ「対話」は重要なのか
どちらが優れているのか?を決めるものではない
歩み寄る。歩み寄っていく
勝つための議論ではない

組織を脱ぎ捨てる

我が社から始めると「対話」は生まれない
○○会社の○○です。だと「対話」は生まれない
「私」「自分」を主語に
組織を脱ぎ捨てる

一部の人の話を全員の総意にしない

「対話」は多くの人とやらないといけない
でないと、「分かっている人」のみの話しが進む、進んでしまう
すると一部の人が全員の総意になってしまう

「心地良い」に疑問

「不快」にこそ新しい自分を開く可能性があるのではないか?
そこの「対話」に可能性があるのではないか?
「話しが一発で通じる」と「心地よい」
そのうち、自分達だけで通じる、言葉を使うようになる
「心地よい」から

そこに縛られない

”聴く”けど”聴く”ことが目的ではない

そこから何を起こすか
対立を恐れない
俺はこう思うよ
と言えるか

「歩めない」人は「歩めない」でなく「歩まない」って決めている

見えない鎖、3つの「お」
・おそれ
・おごり
・おもいこみ
これが自分を枠にはめてしまう

「歩めない」人は「歩めない」でなく、自分で「歩まない」って決めている

「を」ではなく「も」

好きなこと”を”やろうではなく、好きなこと”も”やろう
「何かを始める」には「何かをやめる」これは思い込み

自分の喜怒哀楽を大事に

身近で、ちょっと面倒くさい事を、身近な違和感と繋がることが大事
”会社人”は違和感を飲み込む、我慢する
”社会人”は自分の違和感を大事にする

自律の「律」

律する方の「律」ではない
自分の旋律を奏でる方の「律」
どうやったら自分は幸せであるのか?


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