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フィジカルな行為の価値

文章を読むことは、単なる情報処理活動ではない。

この連休で唐突に腹に落ちました。きっかけは、オシャレなノートで名を馳せているロルバーンのサイトで読書ノートの特集記事が公開されていて、読書メモを紙のノートに手書きで書いてみたこと。

フォーマットを真似して書いてみたんです。タイトルと著者を書いて、紙の本を読んで付箋を付けた部分を、ページ数とともに書き記し、感想も合わせて書いてみました。

そしたら、体験的にすごいよかった。

文鎮を紙の本の上に乗せて、ページが開かないようにし、一字一句を間違えないようにノートに書き写す。そして、それに対して考えたことを別ページに書く。その一連の作業が、脳に意味を刻みつけていくようでした。

こうして作業した部分は忘れにくいだろうな〜と思うし、パラパラ読み返すこともあるだろうなと直感的に感じています。デジタル情報の単純なそれとは質的に異なるものでした。

もちろん手書きの作業なので、決して大量に書き写すことはできません。せいぜい数カ所が関の山でしょうか。

フィリジカルな行為なので疲れるし、時間もかかります。だからこそ、ここぞという箇所を書き写すし、頑張って書き写した箇所に対しても集中して感想を書きたくなりました。

面倒で仕方がないですし、これをずっと続けていけるのか、その自信はありません。でも、やる価値はありそうです。少なくとも、読み返すものになりそうです。

時間がかかること、その労力を横に置いておいても、すごく贅沢な時間だったんですよね。さすがに平日毎日やる余裕はないものの、心の余裕に対するバロメーターにもなるかも。

Kindle本をさらっと読むだけでは得られなかった、情報処理以上の実感。文章を読み込んで血肉にすることは、それ以上のなにかなんだなと感じました。

この体験をしながら、別のことを考えていました。

自分にとって大事な体験って、極めてフィジカルな性質を持つのかもしれない。

読書メモを手書きでとって気づきを刻み込むのも、毎日日記を万年筆で書くのも、日々ランニングに勤しむのも、週末にカメラを小脇に抱えて外出するのも…。

共通しているのは、フィジカルな試みであることです。

フィジカルな活動は、大抵ものすごく面倒です。ランニングだって面倒は面倒だし、日記だって面倒極まりない。

たまに、毎日日記書いている、なんて話をすると、マメだね〜とか言われるのですが、この面倒さの先にあるものが欲しくなければやる人なんていないでしょう。

手を動かしたり、走ったりするのは面倒。その時間をソファでスマホ触ってダラダラすれば、楽です。やる価値があると思わなければ面倒なことはやりません。

だからこそ、やるということは「大事な時間」だと身体が感じている証左なのです。今回の読書メモの事例も、頭で考えて合理的に判断したというより、感覚的に良い!と思ったのがきっかけですから。

フィジカルなことは、きっと自分は仕事以外で最上位の価値を置いている。面倒だからといって切り捨てていくのではなく、面倒だからこそ価値をおけるのならやる。

一般論を全無視してやっていこうと思いました。

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