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看取りのストーリーを聴かせてほしい

看取り経験のある、介護職の方。お願いがあります。

経験談を、聴かせていただけないでしょうか。

インタビュー内容を記事にして、まとめたいと思っています。

なんのためにそんなことをするのか。

もし、興味を持ってくださる方がいましたら、少しお付き合いいただければうれしいです。

死のとらえ方

今まで生きてきて、最初に「死」を意識したのはいつだろう。

記憶に残っているのは、小学校低学年のころ、「死んだらお母さんに会えなくなっちゃうんだ」と思って、悲しくて布団の中でしくしく泣いていたことだ。

なぜそんな風に思ったのか、きっかけがあったかどうかさえ、今では覚えていない。

小学校6年生のときに、祖父が亡くなりはじめて「死んだ人の顔」をみた。

棺桶の中をのぞき込むのが、すごく怖かったのを覚えている。

おそるおそる、遠くから近づいてそっと顔をみて、「寝ているみたい」と少しだけ拍子抜けした。

周りが悲しんでいる中、なぜか「私はしっかりしなきゃ」と思って気丈にふるまおうと努めた。お坊さんがお経を読んでいる間、幼いいとこが走りまわっていて、気が紛れた。

そのあと、火葬場で、骨になった姿をみた。骨は全部残らないんだな、というのをはじめて知った。思った以上に真っ白だった。この地球上に大好きだった祖父のその姿が残っていない、という事実が突きつけられ、ただただ悲しくて、わんわん泣いた。あぁ、あんなにやさしいまなざしも、畑仕事でざらざらの温かい手も、もうこの世に存在しないんだ、と考えていたら、死っていやだ、と思った。


時は流れ、はじめての就職。

老人ホームに勤めることになり、最初の関門が看取りだった。

死=別れ、悲しい、いやだと考えていた私は、はじめてかかわっていた利用者さんが亡くなったとき、辛くて仕方なく、この先、仕事を続けれられないかも、と思った。

めそめそ泣いていたところに、「その方から教わったことを次に生かすのがあなたの仕事だ」と上司が声をかけてくれた。

死はもしかしたら、おわりではないのかもしれない。

ふと、使命感のようなものが湧いてきた。その方が生きた証は、自分たちの記憶として継承できる。そして次第に、死と向き合うのは介護の仕事だからこそできることだ、と考えるようになった。

最期の迎え方を決めるのは

今でも忘れられないことがある。

生活相談員として勤務して2年目、ようやく右と左がわかるようになってきたころ、「相談したいことがあるのですが……」とご家族から声をかけられた。

面接室で、心苦しそうに話し出した。

「正直なところ、今の姿の父を見ているのが辛い」

どきっ、とした。

その方は、ほぼベッドに寝たきりで、胃ろうで、言葉を介しての意思疎通も難しかった。

お話を伺うと、食事の量が減ってきて、医師から話があったときに、このまま何もしないか、胃ろうを造設するかの選択を迫られとても悩んだ。しかしそのときは、「胃ろうを選択しないことは、殺すのと一緒なのでは」という思いがあった、と。

もちろん、胃ろうを選択してから口腔機能のリハビリが順調にいき、胃ろうを外した方も知っている。胃ろう自体を否定するつもりはまったくない。

しかし、「人が最期を迎えるまでに起こりうる心身の変化」を、あらかじめ知っていたら。

違った選択があったかもしれない。

家族の思いに耳を傾けながら、わたしは必死に言葉を探した。

ご家族がその方を思ってかける声を幸せに感じていると思うこと、たとえベッド上での生活が中心であっても、快・不快の快が感じられる時間を長く持てるようにケアしていくこと、今後のケア方針を、私たちだけではなく、医師なども含めて一緒に考えていくことをお伝えした。

それからいくらも経たないうちに、その方が、突然亡くなった。

ご出棺のとき、ご家族から「あのときは話を聞いてくださってありがとうございました」と言われた。

わたしは、後悔の気持ちでいっぱいだった。話しを打ち明けてくださったことのほうが、よっぽどありがたい。ご家族は、どこまで医療的な処置を望むか、選択の前から、選択したあとも、ずっと悩んでいたのだろう。ご本人にも、ご家族にも、もっと何か出来たはず、と今でもずっと考えている。

不慮の死から考えたこと

数年前、友人が、不慮の死をとげた。

学生時代、いつも明るく私を励ましてくれ、慈愛に満ちた、とても尊敬する友人だった。

正直なところ、普段仕事で人の死と向き合う機会が多いため、人の死をある程度、理性的にとらえられると自分では思っていたが、違った。

3日くらい、布団から出られなかった。

頭ではわかっていても、心はとてつもなくつらい。


しかし、誰しも、いつなにが起こるかわからない。

友人の死が突然すぎたからこそ、介護現場の看取りで、比較的時間があるにもかかわらず、きっかけがないだけで最期の迎え方を話し合えていないこと。結果として本人が望む形でない最期があること。それらが、とてももったいないことだと思うようになった。

そして、新たな疑問も生じた。

そもそも、人は必ず死ぬのに、死の迎え方について学ぶ機会はない。身体がどのような変化を迎えるのか、心がどう変化するのか、どう受け止めたらいいのか。

考えるきっかけとなるようなインタビューを

最近になり、人生会議、エンディングノートなど最期の迎え方を考えるきっかけはさまざまあるものの、実際はやはり話しづらいし、そもそも人の気持ちは変わるし、そんなに早くから話す必要もないのでは、という人もいる。

気持ちは変わってもいい。いざ、死に直面したときに気持ちが変わるのは当然とも思う。

それでもわたしは、心のゆとりがあるときに、考えるきっかけがあったほうがいいと思っている。

死を意識するとき、生を意識する。

その時間は決して無駄にはならない。

ではそのきっかけを、どう作るか。

自分の経験だけでは限界がある。介護の現場で看取りにかかわる人や、ご家族の経験や思いを共有することが、きっかけの1つになるのでは。

そんな思いから、まずインタビューをしたい、と考えた。

あなたの看取りのストーリーを聞かせてほしい。

お話ししてもいいよ、という方、ぜひご連絡お待ちしています。


※途中に出てくるエピソードは、個人情報保護の兼ね合いで若干改変しています。


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