無敵のADHDになる。瞑想で無敵になる話。-1

ADHD診断を下されるより前から実は実践していることがある。
それが瞑想だ。
何か生活面で困っていることがあるからとかではなく、やはり本で読んでいる中で共通して必要な啓発要素として瞑想が挙げられることが多かったので興味があったからだ。
ピクサーの経営に関わる方も最終的に精神を鍛えることに興味が向いていったり
チェスの世界チャンプになったかと思いきや、太極拳を初めてそちらでも世界チャンプになってしまうようなアスリートですら瞑想といったマインドトレーニングを行なっている。
そういったストーリーを読んでいると興味が湧いてくるし自分の身に何が起きるのか実験したくなるというのもあって、コロナ前から始めていたりする。
具体的な効果や手法はネットにいくらでも上がっているのでぜひ参考にしてほしい。
ここでは僕のADHDと瞑想がどう言う関係で効果的だったかを振り返っていきたい。

客観視できるようになる。

まずこれがADHDで倒れてから回復するまで助かった第一要素だった。
薬を飲んでみて体がどんな感じに変化するのか、なるべく詳細に述べることができた。
ラフに「なんだかムカムカするんです。」とかではなく「胃のあたりから吐き気とは違う何かがこみ上げる感覚があるんです。」といった具合に症状を具体的に感じることができる。
この薬を飲んでからソワソワする感覚が止まらないだとか、自分のコンディションを正確に伝えることで、薬の相談がしやすかったように思う。(他人との比較がないのでわからないけど。)

不快感、悦感がわかる。

自分を常に客観視できると日常生活での自分がいかにより敏感になったかを感じることができる。
初期の頃に書いたように、僕は大型デパートや商品が大量に陳列された空間に行くことが苦手になった。
瞑想を通して自分をモニタリングできるようになると、こうした不快感をただ不快と捉えるのではなく「このキツさは一体どこからくるんだろう?」といった具合に、主観的に具合が悪くても客観的に要因と向き合うことができる。
不快な要因に向き合う勇気があると、今度はそれに対してどう対策するかという風に気持ちを切り離して考えることができる。
こういった心の切り替えこそ客観力が必要な過程だと思う。
瞑想をすることで、そういう心の視点の切り替えが素早くできるようになったことはこの度のADHDでの不調から立ち直るのに大事な要因になったと思う。
もう一つ、“悦感”と僕が勝手に作った言葉ではあるけれどあったことが
悦びに対しても敏感に反応する力がついたと思う。
ケーキ屋でケーキを食べた瞬間、花を美しいと思う瞬間、訪れた場所の空気の違い。
そういったところでの細かな幸福感を敏感に感じ取れるようになった。
これがなぜ幸せな気持ちになるのか?というモニタリングをするだけでも今後のストレス対策や、家の環境改善にもすごく役に立つことが多い。
心が敏感になると言うものは諸刃の剣だと思うけれど、“悦感”を得るアンテナを伸ばせると思えばメリットもかなり大きいと思う。

セルフコンパッション(自己肯定感)が鍛えられる。

これもネットで調べるとよく書かれることではあるけれど
瞑想を通して自己肯定感が高まっていくことはガチだと思う。
先述の通り、客観視する力を鍛えられることの副産物がこれに当たる感覚がある。
僕はADHDをこじらせた上での鬱病という形で診断され休業に入った。
実際、何をやっても興味がわかない、意欲がない、なんだったら自刃も考えるくらいには参っていたし、今でも嫌な気持ちがフラッシュバックすると命を放り投げたくなることはある。
けれど、ここで客観視の力がいきてくる。
僕の鬱々とした要因はなんだろうか?僕って本当にダメなやつだろうか?
死んじゃいたいけどなんで死にたいのだったか。
主観的に感じる不快感はいつか立ち向かわないといけない問題だったりする。
でも、実際のところ向き合ってみると単純に自分に起因があるものは少なくて、そもそも立ち向かうというなんともバトルチックなものと無関係で受け流せるものが多かったりもする。
当時の僕の鬱々とした気持ちは、単純に薬だとか物事に興味が持てなかったことへの苛立ちだとかだったけど、それは体調を崩した以上“仕方ないこと”だったし
僕は実際ダメなやつかもしれないけれど振り返ってみると家事も料理も上手だし、音響の知識技術はかなりのものだし、作曲ではグランプリ歴もあるし
たまたま、今の仕事場が合ってないから“仕方ない”でも、他のスキルは磨いてきたよね?と慰めることができる。
死んじゃいたい気持ちも、これはこれで自分の今後の機会損失を加味した上で人生が改善されないだろう絶望感とかに苛まれるのだけど
そもそもの要因としては勤めてた会社がとてつもなくアホだったり、自分自身の体質がそもそも現代社会の仕組みに合っていないだけとか
ともかく自分自身に非があって死ぬ必要があるとはどうにも思えないと言うことに気づいたりする。
むしろ、他人などの外的な要因のせいで死ぬと思うとムカッ腹が立って死ぬ気が失せてくる。
こういった塩梅で、自己を許してあげる、甘やかしてあげる、愛してあげる力が身についたりする。
自分自身を“仕方ないね”の気持ちで嫌な気持ちをゆるく受け流せる力、許してやる力こそセルフコンパッションになるのだけど、これがうつ病から立ち直る上で必要な要素だと今でも思う。
仕方ないねで、全てを一旦水に流す心のドーラ作戦もこれに当たる。

僕らは一度でも症状を拗らせたら一生その体質とか病気と向き合うことが多いと思う。
けれど、瞑想を通してゆるーく対策、対応できるだけでも一般の生活にグッと寄せることができる。
むしろ人より多く細かな幸せに気づくメリットすらできてくる。
無敵のADHDになる、優雅になる上で欠かせない技術、トレーニングとして瞑想はお勧めしたい。

次回は実際に僕が行っていた瞑想をいくつか紹介してみたいと思う。

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