PAPを行為者の信念に関するテーゼに変えて「フランクファート型事例」に対処する
※この記事は注(※)にWriteningを利用しています。
『そうしないことはありえたか?:自由論入門』(高崎将平)を読みながら、タイトルのようなことを考えた。結論をいうと、この試みは失敗した(と思われる)のだが、せっかくなので書いてみる。
PAPとは何か?
『そうしないことはありえたか?:自由論入門』(以下、『入門』と表記)に、「フランクファート型事例」という思考実験の話が出てきた。これは「PAP」という「責任」概念の捉え方に対する反例として、ハリー・フランクファート(1929 – 2023)という哲学者によって提示されたものらしい。
PAP(Principle of Alternative Possibility)とは、次のようなテーゼである。
PAPは「他行為可能性原理」と訳される。「他行為可能性」とは、哲学の自由論における用語で、『入門』では次のように説明されている。
PAP中の「実際にしたのとは別の行為をすることができた」という部分は「他行為可能性」にあたる。なので、PAPは「行為者が彼の行為に責任を負うのは、彼に他行為可能性があったときに限る」と言い換えることもできる。
また、PAPは、ある行為者に責任を負わせるための「必要条件」を述べるものである。それゆえ、このテーゼは「もし彼が実際にしたのとは別の行為をすることが『できなかった』(= 他行為可能性がなかった)ならば、行為者は彼の行為の責任を負わない」と述べているに等しい。
PAPは私たちの「責任」についての直観をある程度説明できる。そのことを次の例で確認したい。
上のケースの場合、普通、私たちはこの銀行員に「強盗に銀行の金を渡した」という行為の責任を負わせることはないと思われる。そしてこのことは、PAPに基づいて次のように説明できる。
銀行員は強盗に拳銃を突きつけられていたために、「強盗に銀行の金を渡した」という、彼が実際にしたのとは別の行為──例えば、強盗に反撃したり、誰かに助けを求めたりといった行為──をすることが「できなかった」。つまり、この銀行員には他行為可能性がなかった。それゆえ、PAPで述べられている条件を満たしておらず、この銀行員は彼の行為についての責任を負わない※。
このようにPAPは、私たちが、ある行為者に行為の責任を帰属させる際の、説得力のある基準を提供するように見える※。しかし、このPAPに対して反例となる思考実験が考案された。それが「フランクファート型事例」である。
「フランクファート型事例」
「フランクファート型事例」とは、1969年にフランクファートによって提示された思考実験と、それ以降の哲学者によって考案された類例を含めた総称である(『入門』、p. 40)。ここでは、『入門』で挙げられている、『罪と罰』をもとにした例をそのまま引用したい。
多くの人は直観的には「ラスは老婆の殺害に責任を負うべきである」と考えるのではないだろうか。というのも、結果的にラスに仕込まれたチップは作動することはなく、ラスは自身の意志で老婆の殺害を決断し、それを実行したのであるから。
しかし、この事例においてラスに他行為可能性はなかったとも考えられる。もし、ラスが殺害をやめようと決断していたとしても、チップが作動することによって、ラスは老婆を殺害することになっていた。したがって、ラスは「老婆を殺害した」という、「彼が実際にしたのとは別の行為をすること」は「できなかった」。それゆえ、ラスに他行為可能性はなく、PAPに基づけば、ラスは老婆殺害の責任を負わないということになる。
このように、「フランクファート型事例」においては、PAPと私たちの直観との間に齟齬が生じてしまう。少なくとも、前述の銀行強盗の例(ケース1)のようには、すんなりとは両立しない。そこで何らかの対処法を考える必要が出てくる。
対処の方向性としては、大きく二つあると思われる。一つめは、あくまでPAPを擁護するために「フランクファート型事例」の穴を探すというもの。二つめは、「フランクファート型事例」を受け入れ、PAPの方を修正するというもの。『入門』では前者の例として、「自由の微光」論・「ジレンマ批判」・「W - 弁護」といった議論が紹介されている。
それに対して本記事では、後者に属する試みとして、「PAPを行為者の信念に関するテーゼとして修正する」という対処法について考えてみたい。
PAPを修正する──PBAP
前述の「ケース1」と「フランクファート型事例(ラスの事例)」を見比べると、次のような違いがあることがわかる。
「ケース1」の場合、「お金を強盗に渡してしまった銀行員には他行為可能性はなかった」と私たちは考えるだろう、と述べた。そして、これは当の銀行員自身も同じように考えると思われる。つまり、ここでは「行為者自身(銀行員)」も、その状況を客観的に見る「私たち」も、同様に「銀行員に他行為可能性はなかった」と判断し、そこに差異はない。
しかし、「ラスの事例」ではそうではない。ドクターXがラスにチップを埋め込んだことを知っている私たちは、ラスに他行為可能性はなかったと考える。しかし、事情を知らないラス(行為者自身)は「自分には他行為可能性がある」と信じていただろう。ラスは自分に他行為可能性がある──すなわち、老婆を殺害しないこともできる──と信じた上で、老婆の殺害を決断し、実行したのである。
このように「ラスの事例」においては、行為者自身であるラスと第三者の私たちとでは、ラスの他行為可能性の有無について、見方が異なる。この差異を踏まえて、PAPを修正することで「フランクファート型事例」に対応できないだろうか。具体的には、PAPを次のように変更する。
これを仮にPBAP(Principle of Belief in Alternative Possibility)と呼ぶことにする。PAPとの違いは、「行為者が信じていた」という部分が追加されたことである。PAPでは「行為者に他行為可能性があったかどうか」が行為者に責任を帰するための必要条件となっていたのに対して、PBAPでは「行為者自身が自分に他行為可能性があると信じていたかどうか」が必要条件となる※。
PBAPを採用すれば、「ケース1」も「ラスの事例」もクリアすることができる。前述のように、「ケース1」の場合は、行為者(銀行員)は自分に他行為可能性はないと信じていたと考えられる。それゆえ、PBAPの必要条件を満たさず、行為者は責任を負わない。それに対して「ラスの事例」の場合は、行為者(ラス)は自分に他行為可能性はあると信じていたと考えられる。それゆえ、PBAPの必要条件を満たし、行為者に責任を負わせることができる。
PAPでは障壁となった「ラスの事例」をクリアできるという点で、PBAPはより優れている。しかし、このPBAPに対しても反例が存在すると思われる。
PBAPへの反例──「ラスの事例-2」
前述の「ラスの事例」に次のような設定を追加する。
元々の「ラスの事例」と同様、この「ラスの事例-2」においても、直観的には「ラスは老婆の殺害に責任を負うべきである」と考えられる。ここでもやはりラスは、自身の意志で老婆殺害を決断・実行したのであるから。
それにもかかわらず、「ラスの事例-2」はPAP・PBAPのいずれの条件も満たさない。「ラスの事例」のときと同じく、「ラスの事例-2」のラスに他行為可能性はないため、PAPを満たさない。
さらに「ラスの事例-2」では、ラスは自分が老婆を殺害する運命にあることを知っていたので、PBAPが要求する「彼が実際にしたのとは別の行為をすることができたと『行為者が信じていた』ときに限る」という条件も満たさない。したがって、ラスは老婆殺害の責任を負わない、ということになってしまう。
このように、「ラスの事例-2」はPBAPに対する反例となる。
おわりに
以上の議論が正しければ、「PAPを行為者の信念に関するテーゼ(PBAP)に変えて「フランクファート型事例」に対処する」という試みはうまくいかないことになる。
ところで、「ラスの事例(-2)」において、私たちが「ラスは責任を負うべき」という直観を抱くのは、その行為が「ラス自身の意志によるものであるから」と述べた。このような、自発的な行為と行為者の自由・責任をめぐる議論については、『入門』の「第2章 自由とは「自らに由る」ことか?──自由の源泉性モデル」での話と関わってくると思われる。
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