PAPを行為者の信念に関するテーゼに変えて「フランクファート型事例」に対処する

※この記事は注(※)にWriteningを利用しています。


『そうしないことはありえたか?:自由論入門』(高崎将平)を読みながら、タイトルのようなことを考えた。結論をいうと、この試みは失敗した(と思われる)のだが、せっかくなので書いてみる。


PAPとは何か?

『そうしないことはありえたか?:自由論入門』(以下、『入門』と表記)に、「フランクファート型事例」という思考実験の話が出てきた。これは「PAP」という「責任」概念の捉え方に対する反例として、ハリー・フランクファート(1929 – 2023)という哲学者によって提示されたものらしい。

PAP(Principle of Alternative Possibility)とは、次のようなテーゼである。

行為者が彼の行為に責任を負うのは、彼が実際にしたのとは別の行為をすることができたときに限る

『入門』p. 36

PAPは「他行為可能性原理」と訳される。「他行為可能性」とは、哲学の自由論における用語で、『入門』では次のように説明されている。

複数の選択肢があなたに開かれているとき、実際にはその中の一つを選んで行為するわけだが、あなたは他の行為を行うこともできた(あるいは、現実の行為を行わないこともできた)と言える。この、「実際にしたのとは他の行為をすることもできた/実際の行為をしないこともできた」可能性のことを、「他行為可能性」(alternative possibility)と呼ぶ。たとえば、あなたが食後にショートケーキを注文したとしよう。このとき、代わりにモンブランを注文することもできたなら、あなたにはそのとき他行為可能性があった、と言える。対してあなたがショートケーキを注文する以外のことができなかったなら、あなたには他行為可能性がなかったことになる。

『入門』p. 33

PAP中の「実際にしたのとは別の行為をすることができた」という部分は「他行為可能性」にあたる。なので、PAPは「行為者が彼の行為に責任を負うのは、彼に他行為可能性があったときに限る」と言い換えることもできる。
また、PAPは、ある行為者に責任を負わせるための「必要条件」を述べるものである。それゆえ、このテーゼは「もし彼が実際にしたのとは別の行為をすることが『できなかった』(= 他行為可能性がなかった)ならば、行為者は彼の行為の責任を負わない」と述べているに等しい。

PAPは私たちの「責任」についての直観をある程度説明できる。そのことを次の例で確認したい。

ケース1:銀行強盗
ある銀行が強盗に襲われた。強盗は銀行員に拳銃を突きつけて金銭を要求した。銀行員は命の危険を感じ、自身の安全を優先したため、やむなく銀行のお金を強盗に渡した。

上のケースの場合、普通、私たちはこの銀行員に「強盗に銀行の金を渡した」という行為の責任を負わせることはないと思われる。そしてこのことは、PAPに基づいて次のように説明できる。
銀行員は強盗に拳銃を突きつけられていたために、「強盗に銀行の金を渡した」という、彼が実際にしたのとは別の行為──例えば、強盗に反撃したり、誰かに助けを求めたりといった行為──をすることが「できなかった」。つまり、この銀行員には他行為可能性がなかった。それゆえ、PAPで述べられている条件を満たしておらず、この銀行員は彼の行為についての責任を負わない

このようにPAPは、私たちが、ある行為者に行為の責任を帰属させる際の、説得力のある基準を提供するように見える。しかし、このPAPに対して反例となる思考実験が考案された。それが「フランクファート型事例」である。

「フランクファート型事例」

「フランクファート型事例」とは、1969年にフランクファートによって提示された思考実験と、それ以降の哲学者によって考案された類例を含めた総称である(『入門』、p. 40)。ここでは、『入門』で挙げられている、『罪と罰』をもとにした例をそのまま引用したい。

 鬱屈した生活を送る青年ラスコーリニコフは、金品目当てで質屋の老婆の殺害を計画する。葛藤と熟慮のすえ、彼はついに斧を手に持ち、老婆の殺害を決行する。そして老婆は彼の計画通り、無残にも殺されてしまう。
 ここまでは『罪と罰』での出来事の一描写だ。私たちは間違いなく、ラスコーリニコフの残虐な性格を非難し、彼の行為を罪に問いたいと思うだろう(あなたが陪審員としてラスコーリニコフを裁く法廷に参加しているところを想像してほしい)。だが、以上の話にさらに次のような突飛な状況を追加してみよう(ここからはもとの『罪と罰』にはないストーリーなので、以下では原作のラスコーリニコフと区別するために彼を「ラス」と呼ぶこととしたい)。ドクターXは悪のマッドサイエンティストだ。ドクターXもラスと同様、その老婆を憎んでおり、この世から葬り去ってしまいたいと思っていた。だがドクターXはずる賢いことに、なるべく自分の手を汚さずに老婆を亡きものにしてしまう術がないものか思案する。そこでラスが老婆を殺そうと計画していることに気づいた彼は、こんな妙案を思いつく──ラスの脳内に(気づかれないように)あるチップを埋め込もう。そのチップは、ラスが自分の意志で老婆の殺害を決行する限りでは、作動することはなく、ラスの行為に何の影響ももたらさない。ただし、もしラスが熟慮の末殺害を思いとどまり、殺害をやめようと決心する素振りを見せたならば、その瞬間にチップが作動し、彼の脳神経に変化を生じさせ、当初の計画通り老婆の殺害へと向かわせる。つまりこうすれば、仮にラスが殺害を思いとどまったとしても、憎き老婆の殺害が約束されるのだ。
 さて、実際にはラスは彼自身の意志で老婆を殺したため、ドクターXが仕込んだチップは作動しなかった。このとき、ラスは老婆の殺害に責任を負うべきだろうか。これが、フランクファートが私たちに突き付けた思考実験のあらましである。

(『入門』、p. 40)

多くの人は直観的には「ラスは老婆の殺害に責任を負うべきである」と考えるのではないだろうか。というのも、結果的にラスに仕込まれたチップは作動することはなく、ラスは自身の意志で老婆の殺害を決断し、それを実行したのであるから。

しかし、この事例においてラスに他行為可能性はなかったとも考えられる。もし、ラスが殺害をやめようと決断していたとしても、チップが作動することによって、ラスは老婆を殺害することになっていた。したがって、ラスは「老婆を殺害した」という、「彼が実際にしたのとは別の行為をすること」は「できなかった」。それゆえ、ラスに他行為可能性はなく、PAPに基づけば、ラスは老婆殺害の責任を負わないということになる。

このように、「フランクファート型事例」においては、PAPと私たちの直観との間に齟齬が生じてしまう。少なくとも、前述の銀行強盗の例(ケース1)のようには、すんなりとは両立しない。そこで何らかの対処法を考える必要が出てくる。

対処の方向性としては、大きく二つあると思われる。一つめは、あくまでPAPを擁護するために「フランクファート型事例」の穴を探すというもの。二つめは、「フランクファート型事例」を受け入れ、PAPの方を修正するというもの。『入門』では前者の例として、「自由の微光」論・「ジレンマ批判」・「W - 弁護」といった議論が紹介されている。

それに対して本記事では、後者に属する試みとして、「PAPを行為者の信念に関するテーゼとして修正する」という対処法について考えてみたい。

PAPを修正する──PBAP

前述の「ケース1」と「フランクファート型事例(ラスの事例)」を見比べると、次のような違いがあることがわかる。

「ケース1」の場合、「お金を強盗に渡してしまった銀行員には他行為可能性はなかった」と私たちは考えるだろう、と述べた。そして、これは当の銀行員自身も同じように考えると思われる。つまり、ここでは「行為者自身(銀行員)」も、その状況を客観的に見る「私たち」も、同様に「銀行員に他行為可能性はなかった」と判断し、そこに差異はない。

しかし、「ラスの事例」ではそうではない。ドクターXがラスにチップを埋め込んだことを知っている私たちは、ラスに他行為可能性はなかったと考える。しかし、事情を知らないラス(行為者自身)は「自分には他行為可能性がある」と信じていただろう。ラスは自分に他行為可能性がある──すなわち、老婆を殺害しないこともできる──と信じた上で、老婆の殺害を決断し、実行したのである。

このように「ラスの事例」においては、行為者自身であるラスと第三者の私たちとでは、ラスの他行為可能性の有無について、見方が異なる。この差異を踏まえて、PAPを修正することで「フランクファート型事例」に対応できないだろうか。具体的には、PAPを次のように変更する。

行為者が彼の行為に責任を負うのは、彼が実際にしたのとは別の行為をすることができたと「行為者が信じていた」ときに限る

これを仮にPBAP(Principle of Belief in Alternative Possibility)と呼ぶことにする。PAPとの違いは、「行為者が信じていた」という部分が追加されたことである。PAPでは「行為者に他行為可能性があったかどうか」が行為者に責任を帰するための必要条件となっていたのに対して、PBAPでは「行為者自身が自分に他行為可能性があると信じていたかどうか」が必要条件となる

PBAPを採用すれば、「ケース1」も「ラスの事例」もクリアすることができる。前述のように、「ケース1」の場合は、行為者(銀行員)は自分に他行為可能性はないと信じていたと考えられる。それゆえ、PBAPの必要条件を満たさず、行為者は責任を負わない。それに対して「ラスの事例」の場合は、行為者(ラス)は自分に他行為可能性はあると信じていたと考えられる。それゆえ、PBAPの必要条件を満たし、行為者に責任を負わせることができる。

PAPでは障壁となった「ラスの事例」をクリアできるという点で、PBAPはより優れている。しかし、このPBAPに対しても反例が存在すると思われる。

PBAPへの反例──「ラスの事例-2」

前述の「ラスの事例」に次のような設定を追加する。

「ラスの事例-2」
実は、ラスはドクターXが自分にチップを埋め込んだことを知っていた。したがって、自分が老婆の殺害を決断したとしても、思いとどまったとしても、どちらにしろそれを実行する運命であることを彼は知っていた。しかし、ラスはあくまで自分の意志で行うことにこだわり、それを遂行した。当然、ラスに埋め込まれたチップは作動しなかった。

元々の「ラスの事例」と同様、この「ラスの事例-2」においても、直観的には「ラスは老婆の殺害に責任を負うべきである」と考えられる。ここでもやはりラスは、自身の意志で老婆殺害を決断・実行したのであるから。
それにもかかわらず、「ラスの事例-2」はPAP・PBAPのいずれの条件も満たさない。「ラスの事例」のときと同じく、「ラスの事例-2」のラスに他行為可能性はないため、PAPを満たさない。

さらに「ラスの事例-2」では、ラスは自分が老婆を殺害する運命にあることを知っていたので、PBAPが要求する「彼が実際にしたのとは別の行為をすることができたと『行為者が信じていた』ときに限る」という条件も満たさない。したがって、ラスは老婆殺害の責任を負わない、ということになってしまう。

このように、「ラスの事例-2」はPBAPに対する反例となる。

おわりに

以上の議論が正しければ、「PAPを行為者の信念に関するテーゼ(PBAP)に変えて「フランクファート型事例」に対処する」という試みはうまくいかないことになる。

ところで、「ラスの事例(-2)」において、私たちが「ラスは責任を負うべき」という直観を抱くのは、その行為が「ラス自身の意志によるものであるから」と述べた。このような、自発的な行為と行為者の自由・責任をめぐる議論については、『入門』の「第2章 自由とは「自らに由る」ことか?──自由の源泉性モデル」での話と関わってくると思われる。


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