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不安と恋は似ている。ので、ひとまず猫を撫でてみる。

コロナ禍のなか、ネットを開けば恐怖や不安という文字が、よく目につくようになった。

が、私はわりと平常心で暮らしている。
死の可能性はいつだってどこだっていろんな形で潜んでいるわけで、
と『北の国から』の純口調で斜に構えてしまう。
もちろん感染拡大を防ぐためのマスク、手洗い、外出自粛は実行中だ。
切実な問題が山積みであることもわかっている。
今誰かが抱えている不安な気持ちもないがしろにはしたくない。

けれどコロナ以前にも、不条理な死や生活に苦しむ人はたくさんいた。
戦争だって震災だって、世界のどこかで起こっている紛争でだって、遺骨すら戻らない死がたくさんあって、今までの暮らしをすべて失った人がいたことを、今こそよく感じる時なのだと思う。

私個人の話をすると、
仮にアクシデントや病気がなかったとしても、死が確実に近づいてきていることを、身体の如実な変化によってここ数年とみに実感するようになった。
これが更年期ってやつか……更年期、おそろしい子……!!
私はひどく戦慄している。
1日の時間に換算すれば、おやつの15時くらいかな?わーい!!
ともならず、もうすぐ夕方だというのに、
晩御飯をどうしたらいいのかわからず、
寝床のあてもないときたら、不安は募る一方だ。

つまりここ数年、生命およびアイデンティティ危機感がデフォとなっていたわけで(純)、朝起きると同時に
「自分、なんで生きているんだろう」
とかいう虚無感覚に猛烈に襲われたりするわけで(しつこいが純)、
今だから特別にその不安感が増大したわけではないというだけの話だ。
そういう意味の平常心である。

普段からよく病的な妄想をする。
歩道を歩けば、
もしかしたらあの車が自分に向かって突進してくるかもしれない。
向こうから歩いてくる誰かが、すれ違い様に包丁を向けてくるかもしれない。
あるいは電車に乗れば、
次の高架を渡るときに電車のドアが突然開いて転落するかもしれない。
ホームの人混みから転落して、そこに電車が通過するかもしれない。
あるいはこの高層階に向かっているエレベーターは、突然落下するかもしれない。
改めて書いてみると、まあまあ病的指数が高くてあぶない人である。
もしも5%ぐらいの人が同類だったら、私的には心強いしセーフだ。
けれども10パーを超えると、世の中がちょっと心配である。
実際のところはどうなのだろう?(調査データ希望)

振り返れば、ニュースで不幸な事件を見聞きするたび、
その事件が自分に起こらなかったのはたまたまに過ぎなくて、
自分が生存しているという奇跡に恐怖すら覚えるような子どもだった。
世界には毎日死んでいく人がたくさんいるのに、
自分が今日も死なずに生きているということが、
とてつもない強運だと思っていたのだ。

さてさて。不安について、
例えばキルケゴールはこう言っている。

不安というこの概念が、恐怖やそれに類似したもろもろの概念とはまったく異なったものであることに注意を喚起しておきたいと思う。恐怖やそれに類似した諸概念は、恐怖とか何かある特定のものに関係しているが、これに対して不安は、可能性に先立つ〔それ以前の〕可能性としての自由の現実〔性〕なのである。
  キルケゴール『[新訳]不安の概念』村上恭一訳、平凡社、p.77

……ちょっと何言ってるのかわからない。
が、5回くらい読み直してみると、
暗闇に目が慣れるようにキルちゃんの言っていることもなんとなく理解してくる。
まず恐怖と不安は違う。
恐怖は「注射、痛いからこわい、ヤダ」のように対象がはっきりとしたものであるのに対して、
不安は「ないかもしんないしあるかもしんないし、なんかよくわかんなくてモヤッとするしヒヤッとするしキュウッとする」みたいな感覚である。
つまり不安は「わからない」がもたらすぼんやりとした危機感であり、
居心地の悪い感情だ。
芥川龍之介も言い残した、あの「ぼんやり」とした不安だ。

現代は「不安の時代」と言われている。
それは「不確実性」によってもたらされる。
家族、コミュニティ、キャリア等々、今は自由に選択できることが増えたけれど、選択したことによる結果は、流動的な未来に託されている。
たくさんの自由とひきかえに、不確実というもやもやきゅうに囲まれて暮らしているのが現代人というわけだ。
だからきっと、私だけじゃなく多くのほかの人にとっても、
不安は馴染みのある感情だと思う。

唐突ですが、不安は恋に似ている。
不安の本質が不確実性ならば、
恋の本質も不確実性だ。
しかし、不安が「わからない」がもたらす居心地の悪い感情ならば、
恋は「わからない」がもたらす居心地のよい、
あるいは居心地は悪いかもしれないがとても甘美な感情だ。

やさしくて一度も怒ったことがない彼の温厚さが好きとか
夢を語る時のキラキラ感が眩しすぎて直視不能なくらい好きとか
何を尋ねても懇切丁寧に教えてくれる物知りなところが好きとか
会う度に、好物の黒糖カフェモカフラペチーノタピオカ入りホイップアンド苺ソーストッピング(1200円税抜)を頼んでも、
スマートかつジェントルにごちそうしてくれるから好きとか
そういう何か理由や事象つきの好きよりも、

ぜんぜん好みのタイプじゃないのに好き、
もはや彼の全左足靴を片方ずつ隠したいくらい憎たらしいのに好き、
とかいう「わけのわからなさ」に突き動かされて求めてしまうことを、
わたしは恋と呼びたい。

「あんなやつ、ぜんぜん好きなんかじゃないのに……なのになんでこんなにアイツのことが気になるの……⁈」
っていう、トゥンクから始まる少女漫画定番のアレである。
理由をつけるとするなら、あなたがあなただから好き、だ。

恋も不安も「わけのわからなさ」に巻き込まれる感情だ。
恋が醒めるのは、その理由にしていたものが幻想だったとわかる時だ。
誰にでもやさしいと思っていた彼女が、
入った店の店員に碇ゲンドウのような冷酷さを放った。
夢見る彼が好きだったはずなのに、
夢見がちが過ぎてもはやさっさと行動しろと叫び倒したい。
彼の教養と知性が好きだったのに、
酒(と自分)に酔って太宰の「皮膚と心」を延々と諳んじるのはなんかちょっと(もう無理)。
確実は、白になったり黒になったりする。
恋が終わるのは、黒が許容できなくなるときだ。

ほんとは、その黒も受け入れてしまうか、
わけのわからない恋からわけがわからない愛になればいいのだろうけど、
愛のことはいまだもってよくわからない。
おやつタイムの15時を過ぎるまで生きていてもわからない。
愛のことを語るならば、
おそらく神まで借りださなければならない壮大なテーマだ。
てえへんだ、八兵衛。愛はひとまず置いとこう。

不安の話である。
恋ならば、甘美な「わからない」に、
または甘美な「白」に、時に溺れてしまうのもいいかもしれない。
でも、不安に飲み込まれてどうしようもなくなったときはどうしたらいいのだろうか?
不安は「わけのわからなさ」からでてくるものだったはずだ。
ならばひとまずは、自分の気持ち、自分の将来、大切な人との関係、
そんなことに対する「わけわからん」が今のこの不安をつくっているのだと、ただ思ってみることにしよう。
思ってみるだけ。
確認作業。わかりやすく指もつけちゃってもいいかもしれない。
これならできそうだ。
とても些細なことだけど、
そんなん当たり前やないかいべらんめいかもしれないけど、
「先生、今の、東西言語ちゃんぽんでーす!」と気になるかもしれないけど、
不確実のなかに微かな確実という点を落とすことができる。
不確実のなかに現れた確実は、わたしを不安の海からすくい上げる。
もしかしたら、仏教の「今をとことん意識する」という方法に近いかもしれない。

いつの頃からか、幼い頃そうだったように、
日々大袈裟に感じていた生きているというとてつもない幸運を実感しにくくなってしまっていた。
そうだ、私はヨゴレだ。
あれが欲しい、こうなりたい、こうしたい。
欲が満たされていないことへの不満が顔をもたげる。
いろんなことに傷ついてこわいものがいっぱいできた。
夕飯の決まらない人生にも不安がよぎる。

しかし今、もっともイケてる「おそれ」とは「畏怖」という感情ではないか。「畏」には、「おそれかしこまる」「敬服する」「うやまう」などの意味がある。
しかしただ単にびびってはだめだ。
びびり損だ。
こんなときにも損得か、というツッコミはなしで聞いていただきたい。

そうだ、今生きている世界のことを考えてみよう。
世界がどういうふうにできているのだろうということに、
脳みそも心もめいっぱいつかうのだ。
そして世界を成り立たせている働きや繋がりやその不思議を、
めいっぱい畏れるのだ。

人との出会い。
毎年咲く花。
風が吹くこと。
桶屋が儲かること。
そして生まれて死ぬこと。

わたしたちがどうこうできる世界では、もともとなかったのだ。

わからないことは、もうほんとうにわからない。
不安はきっとなくならない。
今日も誰かがどこかで恋に落ちてる。
お金も仕事も人生も、これからどうなるかわからないけれど、
今夜のおかずは焼きそばを作った。
ブロッコリーも茹でた。
豚肉とキャベツと干しエビを入れた。
青のりにちょっといい紅生姜を添えた。
炒める時に入れる水の加減が適当だったのに絶妙で、
結構おいしかった。
猫の毛のふわふわだって今日も気持ちがいい。
もう14年も生きててえらい。
わたしも生きてるんだすごい。
今の、居心地のいい「確実」の点を見つけて、
とりあえず、ささやかに喜んでみることにする。


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