見出し画像

読めない司書と名無しの少年(1)『少年』


 暗くて、暗くて、ほんの少し先も見えない闇の中で少年は気が付いた。
固い木の椅子、いつからここに座っているのだろう。わずかに痛み始めた尻の肉がそれなりの時間ここにいることを主張している。

 何も見えない。とにかく灯りが欲しい。少年は暗闇に手を延ばすと硬い何かに手が振れた。目の前にはどうやら机があるらしく、指先からは木の心地よい感覚が伝わってくる。周りからは、ほんのりと木の匂いと古い紙の匂いもする。

 目を開けているのか、閉じているのかも分からない暗闇。何かの気配。言いようのない不安感が胸の中で騒ぎ立て、何者かが暗闇から自分の背後から忍び寄り、そっと肩を触れてくるのではないか。そんな想像が暗闇を弄る手を急かした。

はやく、はやく、何か灯りを。

 そこにふと冷たい何かが触れた。一瞬、驚いて引っ込めた手をまたその方向へ延ばすと金属の感触があった。少年は両手でそれを掴むと、ちょうど左右の手ですっぽりと掴めるほどの大きさであることが分かった。さらに手元に引き寄せてより入念に確かめた。どうやら円柱状の形をしていて上部には取っ手がある。
 少年はこの形には覚えがあった。予想が正しければ、この物体の下部には小さなつまみがあるはずだ。
「あった!」思わず声がもれる。
 小さなつまみをゆっくりと捻る。
 
 円柱の物体はその内側から徐々に光を放ち始め、少年を暗闇から照らしだした。眩しさに目を細めながら、安堵のため息がもれた。
 それはランタンで、中心には炎の変わりに青白く光る石が、輝石がはめ込まれていた。輝石灯と呼ばれるものだ。

 おぼろげな記憶が少年の頭の隅をよぎる。 そういえば輝石灯って貴重な物だって教わったっけ。でも誰に言われたっけ。
 
 ランタンは直線と曲線によって構成された金属の枠組みと、精巧な技術でもってはめ込まれたガラス板、そこに植物の蔦や葉の装飾が施され、それらが巧みにく合わさって円柱の形を作り出し、光を放射状にあますことなく放っている。素人目にも、これが職人の技によって作られたものと分かる。
 輝石の青白い輝きによって浮かび上がる蔦と葉の装飾の影が、置かれた机の木目に、影絵を投影していた。それはまるで、かつて長机が大木の一部であったころを思い出させるような趣があった。
 この形も、丸い持ち手も実によく手に馴染んでいる。いつだってこの輝石のランタンは、自分の行く先を照らしてくれた。間違いなくこれは自分の持ち物だと少年は確信した。しかし、手に持った輝石灯と服を除けば持ち物はそれ以外に無い。もとよりそれ以外に持ち物なんて無かったような気もした。

 旧来の共と再会したことは頼もしいくあった。このような灯り一つない場所では特にそうだ。先ほどまで胸を這いまわっていた焦燥感は消え失せ、少しだが背後にあった不安感も消えていった気がした。
 それでも闇は深いことに変わりはない。輝石灯の灯りは黒い絵の具に落された一滴の白い絵の具のようで、すぐにでも塗りつぶされてしまいそうだった。

「誰かいる?」
 あいかわらず気配はあるが返事はない。
 何もいないから、何かいると思ってしまうのかも……。少年は頭をふって椅子から立ち上がった。椅子と床のこすれる音がやけに響く、静けさはより暗闇をひきたててしまう。
 
 輝石灯をかざすと暗闇から古びた書架がぼうっと浮かび上がった。本の無い、空の書架だ。種類別けの案内をするような文字版は見当たらず、替わりに幾つかの数字の組み合わせと鳥の絵が刻まれたている。書架は一つでなく沢山あるようで、輝石灯で周囲をぐるりと照らすと、自分がいた長机と椅子を四方から取り囲むように書架があり、だがそのどれもが空だった。

 古い書架達は闇から滲んで出てきたようにも、今まさに闇に溶けかかっているようにも見えた。ずっと長い間、陽にさらされることなく、ずっとここにあるのだろう書架は、闇の中にいることが当然だと言っているようにも思えた。
 不安感は……まだある。でも古い家に帰ってきたような懐かしいような、そんな匂いが少年には感じられた。
 
 書架は背も高い。少年よりずっと高く、見上げた先もまた闇に溶けていった。そして少年の視線の先、ずっと、ずっと高い所に何かの光が見えた。
 
「星……?」
 キラキラとした輝き、夜空に浮かんだ星のような。しかし、よく見れば自由に儚げにそれぞれが瞬いている星々のそれでなく、整列し、等間隔で、闇を四角く縁取り、ときにそれらが十字を結ぶように、または斜めに横切って端と端を繋ぐように、行儀よく並んでいる。決まりきったような配置の中で自由に動いている光も見えた。そのどちらも青白い光を放っていた。
 
 少年は手元の輝石灯と上方の光とを見比べ、それが同じ光だと気が付いた。
「上に人が居るんだ。あんな高い所に」

 壁に掛けられた光。欄干に等間隔に並んだ光。それは幾重にも重なって積まれて、階層に次ぐ階層を。それらを上下左右に繋ぎ合わせる空中回廊の光。階段を照らす光。そこを行き来する人の光。人工の星座が少年の上で輝いている。
 しかし、少年のいる場所を照らしてくれるほどの光量はなく、ここにまで届いてはくれない。

 間違いなくここと上層は一つの構造物の中にある。それなのに、少年の目には上層はまるで違う世界かのようで、こことは切り離されているように思えた。そもそもこれは建物なのか洞窟なのかもわからない。全てが深い黒のベルベットのカーテンで覆われ、隠されている。分かった事は途方もなく大きな空間が目の前に広がっているということだった。
 
 どうしてここにいるんだっけ?
 
 少年は思い出そうとした。頭を捻って、自分の頭を叩いてみたりして、グルグルとその場をうろついてもみた。けれどもやっぱり思い出せない。何か用があったと思うのだけど、誰かの頼みで来たのか、自分の意思で来たのか、そもそもそんなものあったのかどうかも。ずっと一人だったような気もするし、誰かがいつも傍にいたような気もする。
 
 ここに居ても仕方がない。お腹もすいているし、ここは少し寒い。少年は輝石灯をいつものように腰に結び付けると歩き出した。北も南も、時間さへもわからないまま。

 
 少年の腰に吊った輝石のランタンが揺れるたび、装飾によって作り出された蔦と葉の影が木製の床の上を滑っていく。輝石灯が照らすのは古びた空の書架と整然と並ぶ長机と椅子ばかり。歩きながら机の上に指を滑らせると、そのままそっくりと埃の轍ができあがった。

 いつかここに本が置かれて、誰かがそれを手に取って、どれかの机にそれを広げ、座り、読まれること。それが叶わなかった場所。それがここなのかもしれない。
「なんだか、寂しい場所だな」

 暗闇にはなれた。けれども今度は、肌寒さが寂しさを伴って、少年の着ている袖口から、ボタンの隙間から忍び込んできていた。
 見上げると上は賑やかだ。音こそ聞こえてこないが、灯りは比べるまでもなく多くて、なにより人がいる。見れば見るほどに自分のいる場所は寂しく思えた。
 
「誰かいないかな」
ポツリとつぶやて、よけいに寂しくなった。

 
 それからしばらく歩いたが何も変わらない。相変わらずの光景が闇から浮かんでは消えいく。頭上に輝く光にも変化は無く、距離感と時間間隔が狂っていく。

 ここはなんなのだろう?

 でも確かに、ここに漂う空気の肌触りと紙の匂いはよく知っているもので、きっと上には沢山の本があるのだろう。少年はいつの間にか止まっていた足を再び動かそうとしたとき視界の隅で何かが動いた。
「誰かいるの?」
 返事はない。が、確かにそこに何かがいる。書架の裏に。
 うっすらとした白く仄かな輝き。輝石灯の光ではないのは間違いなさそうに思えた。
 恐る恐る覗きこむと、そこには仄かに光る兎がいた。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?