見出し画像

昔の手帳に書かれていた願い事

「ウィステリア通りみたいなとこで1億くらいの家に住む。海の近く。子供は3人」

それは手帳の目標のところに雑な字で書き込まれていた。
書き手の頭がさほど良くないということが瞬時に伝わる文面。
さらに横に描かれた下手な椰子の木のイラストでダメ押し。
こんなことを書くアホは1人しかいない。
10代の頃の私だろうと、手帳をめくって私は驚愕した

なんと書いていたのは26歳の私であった。
10代の黒歴史だと思っていたら、それより重症だったのだ。
ウィステリア通りとは、当時ハマっていた海外ドラマ「デスパレートな妻たち」に出てくる架空の住宅団地の呼び名である。
26歳の私は営業マンとして、それなりに稼いでいた。
というか、自分史上、最高に稼いでいたのだ。
それで気持ちが大きくなっていたのかもしれない。
分別のつく年齢にも関わらず、このような夢を持っていたのである。
しかし、そんなことを書いたこともすっかり忘れてしまっていた。
その時の気持ちから、かなり離れたところに来てしまったからだ。


最高に稼いでいた26歳の私(自分史上ですよ)は、なんとその年、
結婚式という高額商品を衝動買いして、結婚した。
そこから1億の家も、海の近くも、ウィステリア通りも、そんなことを思う余裕すらない発展途上生活が始まったのだ。

定時に帰れず、出張もあるような仕事で、家庭との両立がうまくいかず、
私は仕事をやめて契約社員に転職し、地味に働きながら、夫とECサイトでの物販を副業で始めた。収入は半分以下になっていた。

おしゃれな駅前の賃貸マンションを借りたのに、部屋はいきなり商品ダンボールで溢れ返り、仕事から帰ると段ボールの隙間で検品&発送&メールチェック という内職な日々。
お金が入れば商品を仕入れ、カメラや簡易なスタジオ設備など、
初期投資するものがたくさんある完全なる自転車操業。
それが新婚の思い出。
それでも売上に左右されるギャンブルな暮らしは、かなり楽しくて、ワクワクする毎日。
失敗を繰り返しながら、それなりに収入として成り立ってきていたが、私は
発展途上生活がすっかり板についてしまい、好きな時に好きなものを買ったりすることから離れ、とにかく節約!!お金のかかることが大嫌い!
安いが正義!タダとかもらえるものが大好き!必要なものはとりあえず作る!!という発展途上マインドに切り替わっていた。
維持費が高いからと郊外なのに車も手放し、休みの日は夫とチャリでどこでも出かけ、買い出しも、車しか走らないような道路もチャリで走行していた。

当然、子供を産むなど全く考えていなかった。
猫を拾ってしまったのもあったし、そもそも、衝動買いの結果、結婚しただけなので、そこに計画も何もあるわけもなく、ただ、自転車操業の検品&発送の日々が過ぎていき2年くらい経った頃、
まわりが子供の話題について一切、触れてこなくなった。

結婚した途端、方々から子供の予定を聞かれる機会が増え、びっくりしたのだが、それがピタッとなくなったのだ。
結婚前までは、生理がちゃんと毎月くる、うまくやってる人だったのに、
結婚した途端、私は不妊の人として生きることになった。
女子の人生、大変すぎる。
不妊の人として生きてるうちに妊活のアドバイスを方々からもらうようになった。いつかは欲しいけど、今は困る。本当に困る。生活に困窮してるのが不妊の原因とは言えず、アドバイスを聞いていたのだが、
「人工授精の段階になったら30万円じゃきかない。」
という一言で焦った。
その人は妊活のせいで生活が困窮しそうだと嘆いていた。
我が家よりはるかに安定した生活を送っているであろう人が
妊活のせいで生活が困窮するかもしれないのだ。うちだったら破産する。
節約スイッチが入った。今から自然妊娠にかけて準備するしかない!
それで2年後くらいに妊娠できたら儲けものだ。
と決意したその月に妊活は終了した。
妊娠したのだ。予定より2年も早く。
妊活したのに、避妊に失敗したくらいの計画性の無さである。

当然ながら、生活はさらに困窮し、自転車操業が加速した。

それでも産んだ赤子は可愛くて、先延ばしにしなくてよかったと思った。
夫は仕事を辞め、本格的にECサイトでの販売人生がはじまり、生活も
まぁまぁ安定してきた頃、東日本大震災が起きた。
産後、数ヶ月で私は家でのんびりと育児していたので、ニュースをリアルタイムでがっつりとみてしまった。
人々が大切にしていたものが次々と崩れ去っていく。
当たり前と思っていたことがたった1日でひっくり返るという事実を目の当たりにした。本当に悲しくて、今でも心が痛む。

そして福島原発の事故による影響で、埼玉で計画停電というのが行われた。
数時間、街が計画的に停電したのだ。
乳飲児を抱え、余震の残るマンションで夜間に街中の電気が消える恐怖。
守らなければ死んでしまうような存在を抱えながら、この状況で何かあったら、と思うと不安で仕方なかった。

マンションは電気が止まると、エレベータも使えず、トイレも流れず、水道すら出なくなる。当たり前だと思っているこの生活はたった一つのインフラが止まってしまうだけで成立しなくなってしまう、脆いものなのだと突き付けられた。

どうすればいいのか??

会社員時代に出会った関西出身の社長さんが「阪神淡路大震災のとき、
お金持ちはホテルで避難生活を送って、体育館や公民館なんかでは寝てなかった。それから自分は何があってもお金を稼ぐと決めたんだ」と話してくれたのを思い出した。
計画停電の地域にはバラツキがあり、主要都市では行われなかったし、
蓄電設備のある場所はそこだけ電気が残っていた。

究極の状況になった場合、必要なのは結局、お金なのか?
だとしたら究極の状況で安心できる金額は一体、いくらなのか?


その時、私の頭の中でナウシカが叫んだ

「人は大地がなければ生きられないの!!」

そうだ。大地があれば、マンションなんかじゃなく、庭があれば。
水道が止まっても、井戸水があれば。
薪で火を起こすことができれば、お金がなくても
数日くらい生き延びられるじゃん!

これからは自給自足だ!!

田舎に移住しよう!!

私は決めた。
初めは、駅前のマンションから離れ、埼玉県内の田舎をゆるく探そうと思ったが夫の「どうせ行くならとことん田舎がいい」という発言を真に受け、
数年かけて移住先を探し出し、田舎に行っては、空き家が出たら
お願いしますと言い残して帰ってきていた。

その頃には、郊外の素敵な庭付きの一戸建てに引っ越し、車も手に入れ、
2人目の子供が産まれていた。
誰もがそのままそこで生活を続けると思っていた頃、移住先の物件が見つかったのだ。

賀県の甲賀市にある「信楽町」という、三重県と奈良県と京都と滋賀の県境にある山奥。
ちょっとやそっとのことで関東の人が行けるような場所ではない場所だ。
私も初めて行った時は本当にびっくりした。

限界集落と言われるその山奥の地域で、地元のママ友からも「最終ウエポン」と言われるようなボロボロのガチの古民家で田舎暮らしを始めた。冬はビールを冷蔵庫に入れて保温するくらい、寒い場所だった(部屋に置いておくと凍る)
子供は3人に増えた。
長女が小学校に入る頃、賃貸ではなく物件を購入しようという話になった。

不動産に出てる情報だけでなく、近所の空き家や空き地を訪ねてまわり家主を見つけ出し、交渉する日々が始まった。
しかし、なぜだか、決まりそうになると何らかのトラブルが起きてしまい、
契約に至らないという状況が1年ほど続いた。
物件の内覧に、契約内容の確認、家主さんとの話し合い、の日々ですっかり疲弊してしまい、もうこのまま賃貸でもいいんじゃないか、私も子供達もそう思っていた。しかし、夫はとても機嫌が悪かった。

そもそも夫は移住するつもりもなく、埼玉にそのままいるつもりでいたのだ。
あんな素敵な家を手放してこんな場所まで来たのだから、せめて自分の城を持つまでは納得できない!!と探し続けていた。

私にはそこまでの熱意はなかったが、とにかく夫の機嫌が治って欲しい一心で、どこでもいいから物件を見つけては、夫に紹介していた。

どうせ決まらないのだから、何を見せても一緒である。

そんな時、ひょんなことから千葉のいすみ市に移住した知人と電話で話す機会があり、こちらはなかなか家が見つからないと伝えたところ、
うちの近所に空き家が出てるよ、と軽々しく不動産サイトを送ってくれた。
後に私の親友から「それもう来るよ」と的確な予言をもらったらしい。
物件があれば夫に紹介するのが日課になっていた私は、夫に紹介した。

「見に行ってきていい?」と夫が言い、
赤子に乳を飲ませていた私は、どうせ決まらないだろうと、
どうぞ、どうぞと夫を送り込んだ。

そこは高級別荘地の奥にある忘れられた一軒家だった。
築年30年。空き家状態が長すぎて、庭が森になっており
そこだけ異空間のとんでもない状態になっていた。
水平器を持って行った夫が、これくらい歪んでたよ。
と水平器をずらして見せてくれた。
許容範囲内だけど、歪んでるかもしれないという範囲。
どう思う?と聞かれ、想像できないから、古民家の床に置いてみたところ、
見なくてもわかるくらいに歪んでいた。
試しにビー玉を転がしたら、勢いよく転がっていって帰ってこなかった。
私たちは引っ越しを決意した。

夫が見に行ってからわずか2週間で決まった。
不動産の方も「長く不動産を扱ってますがこんなに早く決めた方に会ったのははじめてです。」と言われた。
わずか2週間だったが、私たちからしたら1年くらい色んな物件を見続けていたので、全く問題はなかったのだ。

千葉に移住するとなった時、埼玉から滋賀に移住した時より
周りにさらにびっくりされた。何で?どうして?
と色んな人から聞かれたが、私にもよくわからない。
説明するとこんな長文になってしまうのだ。

いつだって人生は計画通りにはいかない。

でも、確実に小さな選択の先に今の人生がある。

自分で選んでここにいるのだ。

私は、家の権利書類を見ていて驚愕した。

そこには購入当時の土地の金額が記載されており、
建物の値段は不明なのだが、土地だけで
1億に近い値段で購入しているのである。

バブル時代の値段なので、今はもうそんな値段ではもちろんない。
でも、この家は建築当時はそれくらいの価格だったのだろう。
ボロボロだけど、立派な家なのだ。
そして、まわりは芝生の庭と美しい家が並んだ広い別荘団地。
場所によっては海が見えるくらい海が近い。

「ウィステリア通りみたいなとこで1億くらいの家に住む。海の近く。子供は3人」

そう、26歳の手帳のこの文章が予言みたくなってるのである!
(実際はボロボロの中古住宅だから、思ってたんと違う!っていう感じではあるんだけど、そこがまた私らしい)

ウィステリア通りも、海の近くも。1億くらいの家も、子供3人も、
自分で書いたと思えないくらいすっかり忘れていて、全く、覚えてなかったのに、こうして巡り巡って、そこに着地していたのだ。

あの時のあの選択が。「田舎に移住しよう」と決めたあの日の選択が
26歳の願い事を叶えたのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?