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私の父は自由人

 おはようございます。

 写真は「みんなのフォトギャラリー」から使わせていただいています。ありがとうございます。

 今回は私の父についての話です。

 かなり暗い話なので、苦手な方はご注意ください。

 生まれ育った場所を飛び出した

  父は7人兄弟の末っ子で、父親を記憶にないほど小さいときに亡くしています。

 父が物心ついた時には、家長は長男の人でした。

 父は「父親」を知らずに育ちました。

  高校生の時に自分が生まれ育った場所を飛び出したそうです。家出同然です(縁を切ったわけではなく、兄弟達とは絶えず連絡を取り合っていましたし、実家にも毎年帰っていました)。

  そして神奈川の工業地帯で働き始めました。父は重機の免許はほとんど持っているそうです。

 父と母はお見合い結婚です。

 当時勤めていた会社が大手であること、祖父の腹違いの弟からの仲介だったことから、祖父が結婚を決めました。

 母の意思はほとんど反映されませんでした。

 私がおぼえている一番古い2人の喧嘩

  私が年中の時の話です。

  幼稚園が夏休みになるので、お約束を幼稚園からもらったカレンダーに母と書いていました。

  夜9時に寝る

  布団に入ろうとしたとき、父が帰ってきました。

 「星がきれいだからめろでぃーちゃん、見よう」

  ものすごく酔っぱらっています。

 母が止めます。

 お約束だから

 父と母が口論になり、父が母をたたきました。

 母は泣きながらお風呂に入りに行きました。

 父が私を抱き上げ外を見せますが、私の目には星が見えません。

  母のことで頭がいっぱいで目から溢れるもので霞んでいたからです。

 父が私をおろしたので、私は浴室の曇りガラス戸に向けて声をかけます。

 でも母はヒステリックに怒鳴ってきました。

 私は泣きながら母の言う通り布団に入りました。

 眠れるはずがありません。

 父もお酒を飲みながら泣いています。

 私が母を守ろう

 この日から私の長い長い戦いが始まるのです。

 この当時のことを、幼稚園の先生に私は告白していました。
 それを知ったのは大人になり、自分のシール帳を発見し、何気なく見て知りました。
 この時の自分と母の気持ちを思うとズキンと胸が痛みました。
 母と先生のやりとりが書いてあり「先生に話した」事実を知りました。

 そして、引っ越してからあまり家のことを外で話すなと言われたことを思い出しました。
 私はだから妹とも両親のことを共有しなかったのかもしれません。

 母は、このシール帳を捨てる事ができたはずでした。
 でも、捨てなかったという事は、この時の私や母の気持ちを捨てたくなかったのかもしれません。
 憶測に過ぎないですが。
 シール帳は私が捨てました。 

 振り回されてきた

 父は、優しい人ではありますが、自分のやりたい事や、自分の感情が最優先な人です。

 家族からすると身勝手な行動が目立つ人でした。

 母の話によると、父は放って置くと変な安物の時計を高額で買ってしまったり、自分のサイズに合わない洋服を買ったりしてしまうそうです。

 実際、離婚してから一度母娘3人で住んでいるアパートを突き止められ、やってきた父はパッと分かるくらいサイズが大きいスーツを着ていました。

 父は、例を挙げるとキリがないのですが「自分のこと」自体が出来ないことが多かったと聞いています。任せると大変なので、母が生活の全てを管理していました。

 離婚後、父がアパートに来て以来、母と話をして家庭裁判所に赴き、母を親権とする手続きをしました。

 私や妹の戸籍が変わっても見ることが出来ないようにしたほうがいいという判断でした。

 離婚した後も、父がいつか現れて何かするかもしれない恐怖が、結婚してからも暫くの間続きました。

 父の一番困ったことは酔っぱらうと奇行に走ること。

  普段からあまり家族のことを考えるようなタイプではありませんでしたが、毎晩夜遅くに母の了承も得ず、会社の人を家に連続で連れて帰ってきたり、大声で歌ったりなど、かなりやらかしていました(あとは想像にお任せします)。

  私はその度に父をかばいました。

 母の心の扉

 私が小3か4のある日、家を外出する間際の母に言われました。

 「あなたはいつもお父さんの味方なのね」

 そういってピシャンとドアを閉めて出かけて行ってしまいました。

 その時私は知りました。

 母の絶望と悲しみ、深く閉ざされた心の扉の重さを。

 母から父を受け入れることは到底かなわないのだ。そう思いました。

 傷ついた母を責める気にはなれませんでした。

 私は母に父のフォローを入れることを辞めました。

 母の全く受け入れない状況にした原因の多くは父にあるのは明瞭でした。

 この時から、私は少しでも母に父を受け入れてもらえるように改善してもらおうと奮闘することにしました。

 この時の私は「家族は一緒にいるもの」以外の道を知りませんでした。

 正面からではなく遠回しにアプローチする

 父に真正面から色々言うと自分の身の危険が予想されました。

  いい方法ではないので、とにかくお酒をコントロールは最低限してもらわないとならない。と考えました。

 それ以外は自分がフォローしていけばいい。そう思いました。

 だってずっとそうやって父の身勝手な行動をなだめて、家族のもとに戻してきたからです。

 中学で絶望を感じる

  母は私が6年生から少しずつ働き始め、中学からは本格的に働き始めていました。

  ますます父と母の仲が冷え切りました。

  母が夕飯の準備などはしてくれていますが、学校から帰ったらすぐ炊飯器にスイッチを入れ、洗濯物を取り込み、たたみ、しまいます。

  雨戸を閉め、電話や荷物の受け取りなどあれば対応をします。

  妹には宿題をするように声をかけます。

  母が帰ってきたら夕飯を温め、食卓の準備をします。

  やっていること自体はたいしたことではないかもしれませんが、ほぼ毎日だと宿題をするくらいしか勉強は出来ませんでした。

  毎日ちょっと疲れて美術部もさぼりがちに。

  うっかり昼寝してしまい、真っ暗な中洗濯物を慌てて取り込んだこともあります。

  私はこの時、自分のことを考える余裕はありませんでした。

 もちろん父とは機嫌がいい時を見計らって話をします。それは大抵夜中でした。

 「お父さんが心配だから」と一生懸命お酒の量を減らすことを提案し続けました。

 でも、父から「人に意見をするのはいいけれど、変えようとはするな」と言われました。

 私は父と母の関係修復を諦めました。

 その頃、私は当時の中学の先生に附属大学のある私立の学校に「推薦入学」することを進められます。

 私はとりあえず行けそうな高校と、確実な滑り止めを受けるくらいしか進路を考えていなかったので、先生が私以上に私の進路を考えている事が驚きでした。

 「○○(私の苗字)は大学に行ったほうがいい。」

 この時初めて自分のこと、将来のことを少し考えるようになりました。

 高校の時は見て見ぬふりをした

  高校は父と方向が同じだったので途中まで一緒に行っていました。

 時々置いて行かれましたが、満員電車に乗る時は入り口付近より中に入るほうがいい。と教えてくれたのは父です。

 でもある時から父から「別々に行こう」と言われました。

  私と父の距離も少しずつ広がり始めました。

  私は高校に入ったのは、付属の大学に進学するためで、目的がはっきりしていたので、中学よりは勉強しました。

  学校により、それぞれあると思いますが付属だから誰でも進学できるわけではなく、私が行こうとした学科は30人ほど希望者がいましたが、推薦を取れたのは6人でした。

 高校は自分の進学のことで頭がいっぱいだったので、家のことは見て見ぬふりをしていました。

 大学に入学する前後から異変が始まる

 私が、大学に入学する前後から、父が一升瓶を毎日飲んでは、暴れて家に穴をあけるようになりました。

 一度止めた私は投げられてしまい、痛くて悲しくて家を飛び出しました。

 でも、ここで出て行っても仕方がないので、少し気持ちを落ち着かせてから家に戻りました。

 母を見ると疲れ切ったひどい顔をしていました。

 このままだと、誰か死ぬかもしれない。

 私は父が仕事でいない昼間に、母に静かに言いました。

 「お母さん、離婚していいよ」

  私が引導を渡すような形となりました。

  母はここから離婚に向けて動き出しました。

  何故すぐ行動(離婚)に移さなかったか。

  それはきっと私や妹のことを考えていたから、祖父の顔を立てたから、そして父からの収入に甘えて生きてきたからと言わざるを得ません。

 母が我慢していたのは、経済的な理由が1番大きかったのです。

 その後母娘3人の暮らしは7年ほどでしたが、決して金銭的には楽なものではありませんでした。
 
 でも、父と離れたことにより、母は自分を取り戻す事が出来ました。

 どのタイミングで離婚をしても、困難なことはあったかなと思います。

 「たられば」を言うことに時間を割くよりも、決断した時点から「よりよい生き方」を探して行く方がずっと大事だと私は思います(あくまでも我が家の場合です)。

 離婚してからも

  前述のとおり、父は私たちを追いかけてくるなど、母に未練しかありませんでした。

 すでに母の心が遠く離れていたことが、何故わからなかったのか、私の声を聞き入れなかったのに、何故追いかけてくるのか理解に苦しみました。

 ただ、父には大学と大学院の6年間の学費は手紙を書いてお願いし、支払ってもらいました。

 父がお酒を飲み家に穴をあけたのは、長年勤めた会社から出向という名のリストラにあっていたからでした(後に知りました)。

 父には長年働いて、家を建ててくれたこと、大学院まで行かせてもらったこと、一緒に住んでいる間、経済的に生活を支えてくれたことには感謝しています。

 でも、最終的に私は父との関係を切り捨てました。

 夫や子どもたちの身に危険があるかもしれないと思うと、手を離すしかないと思っています。

 母が晩年父のことを口にすることはありませんでした。

 でも祖父は、亡くなる前に私にポツンと言いました。

 「〇〇ちゃん(母の名前)には悪いことしたなぁ」

  いま、母と祖父は同じお墓に入っています。

  母は祖父のことが好きだったので、祖父が父との結婚を決めたことを許していると思います。

 母の人生の大半を占める結婚生活の全てが悪かったわけではないと私は思っているからです。

 母がそう思っていたかは別ですが。またいつかその辺りは書きます。

  長くなりました。

  最後までお読みいただきありがとうございました。

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