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山手線を、美術館にする話。


前回のnote「駅にゴミ箱を置いたら人生が変わった」の話のあと、
どういうわけか鉄道会社の偉い人と話をする機会を設けてもらった。



その頃大学院に入ったばかりの私としては、初めての"社会の大人"との接触だった。なんだか不安になりながら、待ち合わせの西日暮里駅のカフェで彼が来るのを待った。


私は数ヶ月前まで一般の大学に通っていた。
大学では就職説明会が頻繁に行われ、多くの人はインターンに通った。周りの髪は黒くなりだし、大学にスーツを着てくる人が増えた。みんなある日突然思い立ったように着てくるので、「似合ってねえなあ」とよく言った。いつも素敵な服を着こなしていた銀髪の女の子も、全身がモノクロになっていた。

一度仲の良い友達にESというのを見せてもらった。エントリーシートの略だというのだが、企業に入るにはこのESなるものを必ず書かないといけないらしい。文章を読んでみると、なんだかとても空虚というか、人に好かれるための文章だった。「こういうことを書けば、人は好いてくれるはずだ」みたいな文体だった。その友達はいつも威勢が良くて、どこに行ってもみんなが慕うリーダー的な存在になるようなやつだったので、全く彼らしくないその文章を読んだときに胃の底が溶けて落ちていくような不快感を覚えた。ESには「受かる書き方!」みたいな攻略本があるようだった。彼もそれを読んで書いたのだろうか。

みんながモノクロになっていく季節。
今まで飲み会しかしていなかったのに突然将来のことを話し出し、真面目な顔をし始める季節。
私はというと、外に出る時はいつもヨレヨレの黄土色のオーバーコートに、チャップリンのような先の丸まった古い靴を履いていた。周りが身だしなみを整え出すのと対照的に、髭と髪がずいぶん伸びた。今思えば、そんな浮浪者みたいな格好をしていたのは周りに対抗したかったからかもしれない。

大学から一人暮らしの家に歩いて帰っていく途中。周囲の連帯から離れていく私に、当時仲の良かった友達は「社会不適合者だ」と言った。なんだかとても悲しくなった。時間の流れは、自分と周りとの間に見えない線を引き始めていた。
でも確かに、他に社会と関わる術も持っているからという理由で、就職説明会に行かないのではない。ただ行きたくないから行かないのだ。行ったら密室なのに暖かくて気味の悪い風が吹いていて、それを鼻から吸い込んでしまいそうだから行かないのだ。
だからその友達のいう”不適合”とは、確かにそうなのかもしれない。飲み会の時は一緒に騒いでいても、こういう物事の捉え方の話になってくると言葉が通じる人はいない。ちょっと間をあけて、「そうなんだろうねえ」と返した。

あまり大学には行かなくなり、家で藝大の大学院を受験するためにひたすら絵を描いた。合格して大学院に入れたとしても、何かを学ぼうという気はあまりなかった。ただ、分かり合える仲間を求めていた。そこに行けば、誰かに会えると思っていた。(実際に今の相方の吉野とすぐに出会い、大学院も行かなくなった)


”適合”ってなんだろうなあ。どんどん姿を変えていってしまった大学の同期たち。どこかから船がやってきて、それに一致団結して乗り込み、そして海を渡ってどこか遠い場所へと行ってしまったような気がした。

これからやってくる鉄道会社の人も、私が見送ったあの船に乗って行ったのだろう。そしてまた、広い広い海を渡って、小島に一人で住んでいる私に会いに来る。


トロイとの出会い


やってきた男は恰幅が良く、歯が尖っていた。
無邪気な表情をしながら、場数を踏んできた落ち着きもあった。だから30代にも見えたし50代にも見えた。細い目の奥の方には少年のような純粋ささえあるような気がした。
その雰囲気に、私はあまり警戒心みたいなものを持たなかった。
むしろ、波長が合うのではないかという期待さえあった。
西日暮里駅のカフェで男は私の向かいの席に腰を下ろし、初めての挨拶を交わした。

その日初めて会った彼のことを、後では「トロイ」と呼んでいる。
つまり"トロイの木馬”さながら、保守的な鉄道会社の中に潜入した、前衛的思想を持った人のようだった。

駅の中にゴミ箱を置いた場所(前回の記事)は彼が設計の時に担当した場所らしい。自分の作った場所で何かやったやつがいるということを聞きつけ、やってきたようだ。「あの場所を作ってからあんな面白く使われたのは初めてだ」と、彼は喜んでいた。この席が用意されたのは、彼が私に会ってみようと思ったからだった。

彼は駅を使って面白いことができると信じていた。
彼が考えた企画はどれも刺激的で、発想が普通とは違っていた。「鉄道会社にはこんな人もいるのか」と、その時思った。

彼とはすぐに意気投合した。
それから、「駅にアートを置きたい」という話をした。

いつもの駅の改札を抜けたところで偶然作品に出会ったり。
「今日はどんなものに出会えるだろう」と思いながら駅を通れたり。

そんなことができたら、駅を使う人たちの日常がどんどん気持ちの良いものになっていくだろう。アートを今まで見たことがなかった人も、偶然出会うようになる。その出会いによって、その人のなかの何かが閃いたりするかもしれない。

そんな話に彼はとても共感してくれた。
彼もちょうど同じようなことを考えていたようだ。
駅を表現や創造の場所に変えていく。そしたら東京も変えてしまうだろう。

彼は山手線のプロジェクトチームにいたので、
そこから「山手線を美術館にしよう」という話は始まった。


固くて冷たい駅のイメージを変えていく。
今まで存在した大きな概念や規範を壊していくのだ。
その巨大な塊が壊れていき、そこから新しい柔らかな光景が垣間見えた時、
人は自由を感じるのだと思う。


山手線を、美術館に。


それから少し月日が経った後、"トロイ"から連絡があった。
「上野駅に良い壁を見つけた。」
現地に行ってみると、30mから40mくらいの長い壁があった。

ここを、山手線美術館構想の始まりの場所にすることにした。

しかし、駅の中で展示するとなると、たくさんの問題がある。
この場所はどんな人でもやってくる。
特に上野は、美術館や博物館が点在する品の良いエリアもあるが、駅の反対にあるアメ横は、人間の根源にある欲望をそのまま風景にしたような場所だ。こんなに多くの人種が入り乱れている場所も数少ない。作品を生身で展示することは無理だとわかっていた。

そこで提案したのが、駅の中でよく見るアルミ製の広告フレームを"美術館の額"に見立て、展示するということだった。普段はフレームの中に広告ポスターが入っているが、それがアートになっている。みんなが見知っているものを使うというのが大切だ。見知っているものの姿が変わっているのを見た時、その人の中にある、そのものに対しての定義が打ち砕かれる。それが驚きや感動に繋がるのだ。

30mを超える壁に、大きな広告フレームを8枚取り付ける。
そこで8人のアーティストに声をかけた。
駅という公共の場所に相性が良く、さらにこの試みに賛同してくれそうな作家たち。

当日の設置作業に行ったら駅の作業員の方たちがまるで学芸員のようだった。壁に額を取り付け、それから作品を入れていく。
こんなに人必要か。。?と思ったが、案の定作業はものすごいスピードで終わった。


フレームの中では、何の宣伝もせず、ただ個人の表現が並ぶ。

アートは作品単体で完結せず、文化的な文脈、時代の流行、置かれる場所、それを体験する人々、批判する人、触発される人など、それを取り巻く様々な事柄に繋がっていき、思ってもいなかった、大きな力を生み出す可能性がある。

まるで、自由の風のようなものだ。

©︎Kim Hyunseok
©︎三澤亮介



このプロジェクトには、とても反響があった。
多くの人が共感し、応援してくれた。「これを待っていたんだ」と言う人もいた。「もっとやってほしい」という声がたくさん集まった。SNSを通して多くの人と繋がっていった。そんなことは私にとっては初めての体験だった。

「階級、環境問わず、誰しもが利用する公共施設の中に、今生きる人たちの表現や思想、エネルギーを発する場所をつくっていくことは、大きな意味を持つ気がする。」

テレビの取材が来た時、そんなことを言った。
学部生だったあの頃、こんなことは思っても言えなかった。言いたくなる場面も、聞いてくれそうな人もいなかった。
テレビのディレクターは私と同じくらいの歳の青年だった。大学を卒業してからそんなには経っていないだろう。

でも彼は、カメラを構えながら真剣に私の話を聞いてくれていた。


いつからか社会を恐れていた。あの時大学へやってきた船に乗ってどこかへ行ってしまった人たちとは、広い海を渡らないと会えなくなってしまうのかと思っていた。
新しい土地で、私の知らない新しい言葉を覚えていくのではないかという気さえした。

しかし、その初めて会ったテレビの青年には、自分の声は間違いなく届いていた。テレビに映った美術館は、それを物語っていた。

トロイもいたし、テレビの青年もいた。このプロジェクトの中で多くの人と関わった。不適合者もいなければ、適合者もいない。それぞれが、社会との接し方を持っている。自分のどこか一部を差し出し、何かを得るように接している。

今、海にポツンと浮かぶ小島で一人で住んでいることが心地がいい。
ここにいても大丈夫だとわかったからだ。


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