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【小説】日常

ロットヴァイル公爵家別邸の家事一切を委ねられているマリー・シュナイダーの朝は早い。当然のことだが、当主ルパートが目を覚ます前にすべて整えておかなければならないからだ。

毎朝4時にスタートする彼女の1日だが、今日は特別だ。明日起動されることになっている、娘をモデルに作られたアンドロイドとの挨拶で幕を開ける。これは新しい習慣になるだろう。弾む心でキッチンに向かう。

代用合成品を全く使わない、豆だけを丁寧に挽いたコーヒーを淹れながら、朝食の準備にかかる。

王国では領主制度など、先の戦争終結以来とうに廃止されている。だが、ロットヴァイル公爵家のかつての「領民」であったと主張する者たちは未だに公爵家を慕っているようで、彼らが作る作物が大量に届けられる。貴族階級であっても代用品の占める割合が増えつつある中にあって、ロットヴァイル家で供される食事にそれは一切使用されていなかった。
 
問題は、当主ルパートが食べることに関心が薄いことだ。体が弱く食が細いことも手伝って、朝はフルーツとコーヒーくらいしか口にしない。ジョーカーは食べるには食べるが、「質より量」を地で行くタイプなので正直食材がもったいない。一度そう伝えたことがあるが、二人揃って「お前たちも同じものを食べればいい」と事もなげに言ってのけた。それ以来、「かつての領主に」と届けてくれる者たちに若干の後ろめたさを覚えつつ、自分たちの朝食も一緒に作らせてもらっている。
 
参謀本部所属の情報参謀であるルパートは、どうしても必要でない限り情報部へ出向くことはない。彼が本部へ行こうが在宅であろうが仕事に変わりはない。ウィルスの活性度が低いシーズンであれば外でも買い物をする。そうでなければ、邸内の掃除だ。

ルパートは呼吸器が弱く、喘息の発作を起こしやすい。発作が引き金となり、呼吸困難に陥る可能性もある。清掃には特に気を遣うように、と本宅での研修時に釘を刺された。とはいえ住居を飾り立てることにも全く関心を示さない当主のおかげで、邸内を清潔に保つのはとても楽だ。全員分の昼食作りを挟んでも、午後の早い時間に仕事は終わる。
 
夕方になると、毎日外部出勤をするジョーカーが戻ってくる。ルパートの名代を務める彼は、社交上の理由で再度外出することもあるので、出勤前ほどではないが慌ただしい時間だ。
帰宅したその足でルパートのもとへ報告に向かう様子から、今夜は外出しないらしいと判断すると、マリーはジョーカーの部屋に向かう。バスルームと食事の支度をするためだ。
 
支配階級である貴族にとって、使用人が自室に入ることなど当たり前の光景だ。「プライバシーの侵害」などどいう言葉が出ることは間違ってもない。それは、彼らにとって使用人とは空気のような存在であるからだ。マリーにとってもそれが当たり前なのだが、ジョーカーはそうは思わないらしい。
 
「何だよマリー。そんなこと俺がやるのに」

昼の間に磨き上げておいたバスタブに湯を張っていると、カラリとした声が言う。振り返ると、軍服姿のジョーカーが腕を組んで立っていた。
 
人当たりがよく、誰とでもすぐに打ち解けることができるジョーカーだが、不思議なことにこの家においては使用人との距離感をはかりかねているらしい。自分がロットヴァイル公爵家の人間ではないことが引っかかっているのだろう。
 
飄々として屈託のない素振りの裏に見え隠れする、ジョーカーの持つ心許なさ。思いがけず晒されたその心の柔らかい部分を包み込みたくて、マリーは微笑んだ。
 
「またそんな寂しいことをおっしゃって。ここに暮らす皆さまがいつも快適でいられるようにすること。それが私の仕事ですよ、伯爵。だからお譲りするわけにはまいりません」
 
ジョーカーはわずかにうつむいて肩をすくめる。苦笑とともに、かなわないな、と零しながら背を向けるその後姿を見送って、マリーは笑みを深くした。彼が12歳の時、先代公爵に雇い入れられて以来、自分の子供と思って接してきたのだ。甘えていることなどお見通しだ。そして、何をジョーカーが気にしているのか。それだって正しく理解している。
 
ロットヴァイル一族の血を引く子どもが加わるからと言って、ジョーカーの存在意義が変わるわけではない。ルパートも敢えて口にしたその事実を、マリーは言外にしっかりと伝えたのだ。
 
「ルパート様、他に何かご用はございますか?」
1日を終える前、主人の元に行くと、彼は主治医から診察後の報告を受けている所だった。ジョーカーの姿もすでにない。

「あぁ、今日はもういい。……下がって休め」
眼鏡のレンズを通さずにこちらに向けられる視線は、心なしか柔らかく感じられる。ご苦労だった、とかけられる声に一礼し、マリーは自室に向かった。
 
明日の夜には、一族の血を引く少年がやって来る。どんな毎日が待っているのだろう。知らず微笑みを浮かべながら、マリーは目を閉じた。

明日も間違いなく幸福だ。そう確信しながら。
 

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