新型コロナウィルス騒動で人々が忘れてしまっていることについて

社会Aは、人々が「殺してはいけない」と確信するから殺人発生率が小さい。
社会Bは、監視と処罰が徹底しているから殺人発生率が小さい。

ではどちらが良い社会なのか、といったときに、社会Aだと思う。
良い社会とは、徳のあるものたちがあふれる社会なのだ。
徳とは、「内から湧き上がる力」のことである。


と、アリストテレスが言っていたというのを読んで、震えた。
私はまさにこのためにダンス教室をやっている。
みんなの心の中に、内から湧き上がる力とか、幸せが湧いてきますように、
みんなの心が幸せになって幸せが連鎖しますように、と願いを込めて毎回やっている。

私が生きてる間にちょっとでも良い世の中になってほしい、そのためにはみんなの心の中の光をもっともっと感じたいし光を強くしたい。それぞれが輝いてほしい。


...


これは2019年6月17日に、Instagramに私が投稿した文章だ。

ちょうど1年ぐらい前の投稿で、1年後のことなんて全然予想もしていなかった。今はオンラインでダンス教室をしている。祈るような気持ちでやっているのはこの時と変わらない。


「 徳のあるものたちがあふれる社会」「人々が『殺してはいけない』と確信するから殺人発生率が小さい社会」 、「監視と処罰が徹底している社会」。

なぜ今このことを思い出したかというと、最近SNSでの誹謗中傷が一つの要因とされるとても悲しいニュースがあり、それにより監視が厳しくなるという流れについて、このようなツイートを目にしたから。



「ユーザーが自発的に誹謗中傷を自粛し、他者をリスペクトするような言葉遣いを行うという文化がボトムアップ的に自然に形成されることが望ましいでしょう。」

というのは、私も共感できて、冒頭のアリストテレスの言葉を思い出したのだ。

さらに、以下のツイートを見て、今の社会構造自体や、それに加担していた自分たちのことを考え直さないといけないと思った・・。


「餌を提供して儲けている連中」というのは、先日の悲しいニュースでいうと、はっきり言ってしまうと番組制作陣ということになるのかもしれない。制作側の責任は問われるべきだと思う。もちろん誹謗中傷の投稿をした人たちもきちんと裁かれ、反省すべきなのは大前提として、私たち自身は、反省しなくていいのだろうか?
私は、番組制作陣や中傷をした人たちだけを責めることはできないと思い、だからこそ、このニュースに落ち込んだ。

今後、誹謗中傷ができないように監視を徹底していくことで良い世界になっていくとは到底思えないし、自分たちに全く責任はないのか?と思うと胸が苦しくなる。
私は最近あの番組を見てはいなかったけど、一時期とても楽しみに鑑賞したし、リアリティ番組という類に惹きつけられる感覚も知っている。

今回の悲しいニュースについて、「あんな番組、一度も見たことなかったけど、ひどいね・・」という意見を見かけるたび、そういう側面だけじゃなかったんだよ、と複雑な気持ちにもなる。

愛のある瞬間や人間や人生のきらりと光る瞬間も確かに映っていたものだった、見ているこちらの心が動いたり何かを考えるきっかけを与えてくれたりもした。それは映画のように計算され作られた画面だとしても完全にプロの芸能人ではない人が出演しているからこその映像だったのなら、ちゃんと出演者は守られるべきだったし、過剰になりすぎる前に止めることはできたと思う。完全にプロではない芸能人は、友達の友達みたいな、会ったことないけど会ったことあるような、身近に感じられる魅力があった。そして実際キラキラと魅力的な人が出演していた。番組自体の問題点や、そういうものを求めたり消費してしまっていた私達の奥にあるものや社会構造に関してはまだまだ考えることが山ほどあるけど、それは一旦語らないでおく・・。(ミーハー心、とか、憧れ、とか、東京の生活、だとかについても今回とても考えた)

同じくあの番組を見ていた友達とLINEでショックな気持ちを話し合っていて、私が、「コロナでみんなむしゃくしゃしていて、誹謗中傷もよりひどくなったのかな・・」と言うと、

「叩くのがエスカレートしたのもコロナの影響もあるかもだし、彼女がより思いつめたのも、試合もいつできるかわかんなくて、発散できず、友達に会えずってこともあるかもね、、」と言い、

いたたまれない気持ちになった。真実は誰にもわからないけれど、コロナによって世の中の雰囲気が変わり薄いグレーの雲のように心を浸食していったのなら、それは私達一人一人にとっても決して他人事ではないはずだ。


冒頭のアリストテレスの言葉に戻る。

社会Aは、人々が「殺してはいけない」と確信するから殺人発生率が小さい。
社会Bは、監視と処罰が徹底しているから殺人発生率が小さい。

ではどちらが良い社会なのか、といったときに、社会Aだと思う。
良い社会とは、徳のあるものたちがあふれる社会なのだ。
徳とは、「内から湧き上がる力」のことである。


徳とは、「内から湧き上がる力」のこと。

外側から、何かを押さえ込もうとしたり、みんながみんな同じ方向を向くように、大きな力に言われてしまうと、「内から湧き上がる力」は、湧いてこなくなるのではないか。

殺菌したり距離を取ったり外出しないようにすることは、もちろん感染防止には有効だけれど、人々がそのこと一色になってしまって、感染を拡大させるとされるような行動をしている人がいたら「信じられない!」と非難したり、世間に自分もそう思われない行動をいつもいつも真面目に心がけていたら、「内から湧き上がる力」はどんどんしぼんでいかないだろうか。


犬の散歩のときにマスクを一応いつもしていたけれど、一度マスクを忘れてしまったら人目が気になったと友人に言ったら「錯覚だよ」と言われて、なんだかハッとした。別に咳込んだりくしゃみをするわけじゃなく人とも数人しかすれ違わない屋外でもマスクをしなくちゃと思っていたのは、世間の目が気になっているからだった。自分の心が、気づかないうちにとても窮屈になっていたことに気付いた。

誹謗中傷による悲しい事件も、自粛行動も、監視と処罰を徹底することなんてギスギスした結果しか生まないと思う。
心のことは後回しになりがちだけど、目に見えないものは、失われても、すぐには見えないけど、後々ダメージがくる。

標語を掲げられて、皆同じ方向を向いてがんばろう!と言われるのは、個人の心がじわじわ死んでいくみたいだ。

結局はすべて一人一人の免疫力と「内から湧き上がる力」がないと、根本から解決はしないのではないか。

新型コロナウィルスは、わからないことだらけ。世界中のいろんなデータやいろんな記事を見ても、結局本当のことはわからない。

もちろんできることは気をつけるのは大前提だけれど、感染を恐れるあまり心をどんどん窮屈にすることは、代償が大きすぎるように思う。心のことは目に見えないから、後回しになりがちだ。そして心のことが一番取り返しがつかないんじゃないか。

ウィルスそのものより、「内から湧き上がる力」を人々みんなが失ってしまうことが、一番こわい。






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