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渦中から君へ6

あっという間にゴールデンウィークが終わる。

今年はばあばのうちと家の往復だけの連休だったけれど、例年通りのスピード感をもってそれは終わる。天気のいい日はベランダに出たり、実家でばあばとお散歩したりしているが、天気が悪い日は家の中でYouTube三昧。まだ自力で動画を切り替えられないので、傍らにはぼくかみおさんの手を必要とする。「はい」と言ってぼくかみおさんの手を取り、iPadの画面にタッチさせる。これを自力でできるようになれば我々も楽になるのだが。

YouTubeが見たくなると「あいぱっど」とか「あんぱんまん」とか「おっくん」とか言ってくる。YouTubeとか動画とか言う呼び名はわからなくてもiPadは覚えてしまった。「あんぱんまん」はアンパンマンのおもちゃを使った子ども向け動画のことで「おっくん」はお気に入り子どもユーチューバー。おもちゃ動画を見せても物欲がかきたてられるだけだからどうせ同じアンパンマンを見るなら「本物」のアニメを見てほしい。そう思って動画配信サービスにある劇場版のアンパンマンなどを見せるのだが、それは気に入らないらしい。君の中のアンパンマンは、二次元ではないらしい。

とはいえ、この前、君にむりやり見せていた劇場版アンパンマンの作品にはもやもやした。とてもわがままな女の子が出てきて、他のみんなが迷惑している。しかしその女の子が他人のために尽くしているアンパンマンの姿を影から見ている中で、なにかを感じているらしい。で気まぐれにみんなが協力してやってるお祭りの準備を手伝おうとすると、かばおくんたちから冷たくされ、へそを曲げてしまう。そんな感じのところで君は泣き出すので、仕方なく劇場版は諦めてYouTubeのおもちゃ動画を見せた。

なにがモヤモヤするかというと、この説教臭そうな展開である。どうせあの女の子はわがままな自分じゃいけないと改心し、みんなと仲良くなっておしまいになるんだろう。わがままは悪、協調は善。自分をないがしろにして他人に尽くすアンパンマンこそ絶対的善なのだ。でもね、ぼくはそういう社会が疑おうとしない価値観にこそ違和感を持ってほしい。協調が悪いって言いたいんじゃない。ただ、自分に正直であろうとすることを「わがまま」と切り捨てることは危険だと思う。きっとあの劇場版を見たら「わがままっていけないね」って話になるだろう。そういう「教育」の結果が、いまの絶望的な社会状況を作っていると思っている。

先日、「THE GUILTY/ギルティ」という映画を見た。その作品の主人公もクソ野郎だった。本当に自分のことしか考えてないし、自分の過ちと向き合おうともしない。その彼は緊急通報を受けるオペレーターをしており、助けを求める一本の通報を受け取る。彼はそれを自分一人の力だけで解決しようとし、うまく行きかけたように見たのだが、そこで彼は思わぬ真相に気づかされる。彼は大きなショックを受け、対応を迫られる中で、自らの過去の過ちと向き合うことになる。つまり、彼はそこではじめて自分がクソ野郎だったと気づくのである。

そう、大人なら誰だってわかっていることだが、クソ野郎は存在する。彼らはクソ野郎であるということだけで罰せられることはない。無理に矯正されることもない。それなのに子どもの「わがまま」は当然矯正しなければならないということになっている。わがままは排除し、みんなが「いい子」でいなきゃいけないことになっている。大人は、もっとその傲慢さに自覚的であるべきだと思う。子どもにも人権があるのであり、自由に生きる権利がある。大人がコントロールしていいわけではないのだ。

ぼくはそういう危機感を持っていまの仕事をやっているし、コロナによって休業を強いられる中、さらにやりたいことも見えてきた。それが君がこれを読むころにどう実を結んでいることやら。

君は昨日、うんちをした直後にぼくのところに来て「うんち」と告げた。最近はおむつを替えるときにうんちを見せるようにしていることもあり、ようやく自分の中から出てくる異物の存在を認識しはじめたようだ。実家ではばあばがトイレに入るときに同伴しているようだし、なかなか刺激的な毎日を送っているように見える。保育園では君の学年でトイレトレーニングをはじめるようだし、一年後くらいにはもう自力でやっているのだろうか。保育園もこれから年が上がるにつれて「教育」をやるつもりなんだろう。それが大人のコントロールではなく、うちなる成長に寄り添うようなものであることを祈っている。

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