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渦中から君へ5

ぼくらはアパートの2階に住んでおり、1階は大家さんの住居になっている。大家さんの家の庭には樹木がたくさん植えられており、家庭菜園もやっている。ベランダに出ると風に揺れる木の葉や遊びにやってくる鳥たちの姿が見られるし、君は手すりにしがみついて庭に転がっているゴルフボールに手を伸ばす。もちろん届くわけもなく、君は「ボール、ボール」とせがむのだが、大家さんにゴルフボールを借りにいくわけにもいかない。

君の声を聞いた大家さんがポーチから君の名前を呼びかけてきた。大家さんは非常に親しみやすいおじさんで、引っ越してきてから困ったことはないかと絶えず気にかけてくれている。「ボールが気になるみたいなんですよ」なんてことを庭に現れた大家さんに伝えると、大家さんは笑っていた。大家さんの奥さんも庭に現れて菜園の手入れをはじめた。君は男の人よりも女の人に友好的なので自分から「おーしゃーん」みたいなことを言って奥さんに声をかけた。なんて言ってるつもりなんだろ?奥さんはうれしそうに「はーい」と応じてくれて「パセリ食べる?」とぼくに尋ねてきた。家の中にいるみおさんに尋ねると欲しいということなので「じゃあいただきます」と答えた。

はたして取りにいったほうがいいのかしら、でも今すぐってわけでもないのかもしれないし、君を連れていくとなるといろいろ面倒だし、どうしたもんだろうなんてことを考えている間に部屋のインターホンがピンポンと鳴り、奥さんがパセリと三つ葉、それから名前のわからない葉っぱを届けてくれた。

最近の君はベランダに出るとなかなか中に戻りたがらず、かと言ってたいしたものがあるわけでもないのでとにかくうろうろして外の空気を楽しんでいる。ちょっと前に振り回していた箒は危ないのでみおさんが取れないように細工をしたし、最近飼いはじめたメダカは人の姿を見ると水草に隠れてしまうためになかなか君の前に姿を現さない。まったく賢明な判断である。それでも手すりにつかまって木の葉に手を伸ばしていると、再び大家さんが下から君の名を呼んだ。手にはカラフルなボールがたくさん入った袋を持っている。「これ、あげるよ」と言って袋ごとこちらに投げてくれた。しかし、プラスチックのボールたちは空気抵抗にあってギリギリぼくの伸ばした手まで届かない。もう一度勢いをつけて大家さんは投げてくれたが、やはりギリギリ届かない。何度もやれば届かないこともない気がする。しかし大家さんは「持ってくよ。腕おかしくしちゃう」と言い残し、家の中に消えた。そしてすぐにぼくらの部屋の玄関に現れたのだった。

大家さんにも君と同じくらいの年齢のお孫さんがいて、月に一度くらいは娘さんが嫁いだ名古屋から遊びに来ていたらしい。そこへ来てこのコロナである。娘さんは来られなくなり、大家さん夫婦は孫に会えない日が続いている。

「こんなに長く会えないのははじめてだよ」と大家さんは肩を落とす。「ぐんぐん育つ時期でしょ。変わっていくのが見れないのがつらい」と奥さんも本当に残念そうにぼやく。これはぜんぜん他人事じゃなくて、東京のみおさんのご両親ももうずっと君に会えていない。2月に会ったっきりだ。ようやく二人を「あーちゃん」「じじ」と呼べるようになったのに、いまはビデオ通話で我慢してもらうしかない。行くたびに君のおもちゃが増えていくあのおうちは、今頃は君のおもちゃに埋もれてしまっているかもしれない。

そういえばぼくは最近、「響」という映画を見てえらく感銘を受け、原作の漫画を大人買いして一気読みし、主演の平手友梨奈が所属していた欅坂46に興味を持ったのだけど、みおさんにそのことを伝えると、意外なことを教えてもらった。みおさんのお父さん、つまり「じじ」は平手ちゃんのファンらしい。それを聞いてぼくはとても複雑な気持ちになった。先を越されたというか、なんかかぶっちゃまずいんじゃないかみたいな。次に会ったときに彼女の魅力について話したりするのもいいのかもしれないが、それをじじが喜ぶかどうかはわからないし。

大家さんの菜園のパセリや三つ葉はその日の晩にみおさんが料理してくれた。とても香りがよくておいしかった。名前のわからない葉っぱもおひたしにしておいしくいただいた。

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