「言葉にできない」ことの苦しみ
こころの底には、「言葉にできない」ことがたくさん沈殿している。
何かは確かにあるのだけれど、その形はわからない。
引き揚げようとしても、引き揚げることができない。
吐き出してしまえたら、どんなに楽だろうか。
でも、「言葉にできない」限り、自分の外に吐き出すことはできない。
当然、他人と共有することも叶わない。
「言葉にできない」何かは自分の中でくすぶって、じわじわと自分を黒く染めていく。
私は8年ほど前から現在に至るまで、カウンセリングを受けている。
言葉を通じて自分の内的世界を探る作業をずっとしている訳だ。
現在私を担当している心理士さんは、「ここでは暴力を振るったりしてはいけないけど、言葉でなら何をしても良いよ」と、どんと構えてくれている。
でも、「言葉でなら何をしても良い」と言われたって、言葉は私をそう自由にはさせてくれない。
「死にたい」。例えば、そう思う。
じゃあ、何で「死にたい」のか?
「死にたい」の奥を探ってみる。
「自分は無価値だから」「死にたい」。
「将来が不安すぎるから」「死にたい」。
「すごく苦しい感じがするから」「死にたい」。
じゃあ、何で「自分は無価値」なの?
さらに奥を探ってみる。
「能力が低いから」(?)「自分は無価値」。
「友達が少ないから」(?)「自分は無価値」。
だんだん(?)が入ってくる。
理由付けしようとすると、だんだん薄っぺらくなってきて、本当か嘘かさえよく分からなくなってくる。
結局、「死にたい」という言葉だけ海面にぷかぷかと浮いていて、
「死にたい」という言葉を生み出した、こころの底に沈殿している重苦しい何かは、形になってくれない。
沈殿している何かを、無作法にも言葉にしようと試みると、その瞬間に「沈殿している何か」と「言葉」は離れていって、言葉は意味をなさない代物に成り果ててしまう。
沈殿している何かを、形が分からないまま一人でこころの底に抱え続けるのはとても苦しい。
こころとこころをつなぐ導線があって、言葉を介することなくこころの模様が相手に伝わったら良いのに、と今まで幾度となく願ってきたが、もちろんそんな道具を出してくれるドラえもんはいない。
私は(児童思春期)精神科のナースでもある。
「死にたい」。「リスカしちゃった」。「ODしちゃった」。「涙が出てくる」。「夜になると苦しい」。
患者さんは、伝えてくれる。
「何がそうさせてるのかな」。「どんな気持ちだったのかな」。「何がなくなったら楽になるのかな」。「きっかけがあったのかな」。「どんな時にそうなりやすいのかな」。
手を変え品を変え、患者さんの海面に浮かんだ言葉から、海中に少しずつもぐって底にあるものを一緒に言葉にしようと試みる。
でも、言葉が尽きる時がある。
「うーーん」。「わかんない」。
「なかなかわからないよね」。「難しいね」。
「自分にもわからないってこと自体も辛いよね」。
「誰にもわかってもらえないってこと自体も辛いよね」。
「言葉にできない」ことの苦しみそのものを分かち合う。
そうやって、こころの底にある沈殿物を少しでも慰めてあげることはできるだろうか。
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