アルコールと共に生き延びる
※以下の話はフィクションです。
※依存症などへの根強い偏見があるなか、依存対象に頼らざるを得ない人それぞれの事情を体感していただけたらと思い、物語を作りました。
現在20代の私がアルコールと最初の出会いを果たしたのは、小学生の頃だった。
私は幼稚園児の頃から不眠になり、現在も睡眠薬を飲んでも不眠気味で、不眠歴はかれこれ20年ということになる。
物心ついた頃から、父は夜になるとお酒を飲んで、母親や兄をいたぶった。私は、父にとっては家族の中で唯一可愛い存在だったのか、あまりターゲットになることはなかった。家族の中で最年少の私は、一番早く布団に入るようしつけられていたが、父の怒鳴り声は2DKの極狭団地でふすまごしにもろ聞こえで、眠れるわけがなかった。一人で暗闇の中で、怒鳴り声を聞き、恐怖のあまり涙を流しながら早く終わらないものかと毎日神様にお祈りをした。
家族が寝静まってからも、大きな恐怖と不安は幼い私の心を去ることなく蝕み、布団に入ってから2,3時間眠れないのは普通だった。狭い部屋にぎゅうぎゅうにしきつめた布団の上で、川の字になって寝る家族の寝息と時計の秒針の音を一人だけで聴いている時間は、あまりにも長くて、孤独だった。
そのうち母親が、たまに私の寝顔を見て私が涙を流しながら目を覚ましてじっとしているのに気づくようになった。母親は、なかなか眠れない私を不憫に思い、何時間も眠りにつけない日には、「欧米ではこうやって子どもを眠らせるの」と言いながら、チョコレートリキュールをホットミルクに混ぜて私に飲ませてくれるようになった。
たぶんその頃からお酒に強かった私は、チョコレートリキュールごときですぐ眠れることはなかったが、「お酒を飲んだんだから、もう眠れるはず」というのは強力な安心感になった。
「お酒」と「安心」が、小学生にして結びついてしまったのである。
母親は、物心ついたころから、父のDVのせいでうつ状態だったし、体の病気も何回も患った。
私は母親の母親であるかのように、具合が悪くて寝込む母親にブランケットを掛け、止まらない父親の悪口や死にたい気持ちを聴いてなぐさめ、私へと向かう八つ当たりを感情を押し殺して受け容れ、母の具合の悪い日や仕事が遅くなる日は空気を読んで、家事をこなすようになった。母が、私の小学3年生のころから長期入院をするようになった暁には、家族の中で家事をするべき唯一の「女手」として、全ての家事をこなすようになっていた。
中学校に上がる頃には、夕ご飯を作るために学校から帰ってスーパーに行く時、食材の中に混ぜるようにしてたまに缶チューハイをカゴの中に入れるようになっていた。
店員さんからみて見た目はいくらか幼かったかもしれないが、成長の早い女子が私服を着て、ご飯を作るための食材を買いに来ているのだから、未成年だと店員さんに咎められたことはなかった。
家庭の事情で高1で極狭団地からマンションに引っ越し、自分の部屋を初めて手にした私は、学校から帰ってきて部屋で一人、缶チューハイをたしなむようになった。
大量に買うことはなかったので、酒に強い私はそれほど酔っ払うことはなかったけれど、孤独で自暴自棄な自分の気持ちと、一人で飲むお酒は相性ぴったりだった。その頃にもなると家族と隔絶した生活を送るようになっていた私には、「自分なんかどうでもいい」「自分は死んだほうが良い存在だ」という投げやりな気持ちを、無条件に肯定してくれ受け止めてくれるものとして、お酒が存在した。
お酒がなきゃ、高校生の頃には自殺していただろう。
死にたい気持ちを受け止めてくれる人や物が存在しない限り、人はこの生き地獄を生きていけないと思う。
大学生に上がって周りがお酒を飲むようになってからといって、飲み方が変わることはなかった。サークルの人付き合いや飲みゲーなどはめんどくさいしくだらないと思ったので、飲み会にはあまり参加しなかった。自暴自棄な気持ちになる時々だけ、一人で買って一人で飲んだ。
転機が訪れたのは、パートナーと二人暮らしをしていた時だった。
その頃、私はこころの調子をひどく崩していた。コロナの緊急事態宣言で、ワンルームにダブルベッドだけがどんと占めた窮屈な空間で、2人でひたすらオンライン授業をうける日々。通っていた精神科クリニックも電話診療になり、私が裏の顔を臆面なく見せることのできる唯一の「支援者」という存在との関係も断たれたように感じた。
一秒一秒生きるのが苦しくて、頭の中が絶えず悲鳴を挙げていた。ご飯を食べれば気持ち悪くなって嘔吐し、夜は眠れずあまりの苦しさに「助けてー!苦しい苦しい苦しい」と叫んだ。
パートナーは手を尽くしてくれた。気分転換できるように一緒にお散歩や運動をしたり、小さなハッピーを作るべく2人でホットケーキを焼いたり、夜は寝ずに背中をさすってくれたりした。
それでも苦しかった。
だから、カッティングをするしかないと思った。腕を切って感じる痛みだけが、一時でもこころの苦しみから目をそらさせることを私は知っていた。
「腕を切るのはやめよう」と高校生で深い傷を作ってしまった時以来決意していたが、その決意を守るのはもう無理だった。
授業を受けているパートナーをよそに、カミソリを買うべくドラッグストアへ一人繰り出した。
ところが、その日そのドラッグストアには、いわゆる界隈で有名な「貝印」製の、安全カミソリでなく刃だけがついたカミソリが売っていなかったのだ。
そこで目についたのが、お酒だった。一筋の光明をみた思いだった。
ストロング缶500mLを買い、店をでた瞬間プルタブを開け、一気に飲み干した。
すぐには酔いは回ってこない。
歩きながら見つけたコンビニに入り、もう一回ストロング缶を買い、店を出た瞬間プルタブを開け、歩きながら飲んだ。
固いポリシーから一滴をお酒を飲まないパートナーの元に、酔いが回ったまま帰る選択肢はなかった。
そのままコンビニを回ってストロング缶を買うことを3回ほど繰り返しただろうか。
すでに意識は朦朧とし、足には力が入らなくなっていた。
人通りの多いJRの駅前で、私は倒れた。
通行人が救急車を呼んでくれ、救急車で病院に搬送され、検査や点滴を受けた。
その日からだった。
私は、泥酔が私をこころの苦しみから救ってくれることを覚えた。一か八か急性アルコール中毒で死ねるなら、本望だとも思った。
幼い頃に覚えた「お酒」と「安心」の結びつきが鮮やかに心に蘇り、
高校生で覚えた「死にたい気持ちを受け止めてくれる存在」としてのお酒を思い起こした。
もうお酒をやめることはできなくなっていた。
パートナーがオンライン授業を受けている間に一人ワンルームから抜け出し、コンビニをハシゴして飲み歩いた。そうしないと生きていけなかった。それほど毎日が苦しかった。
ストロング缶は、いつしかもっと度数が高くて安く効率的にアルコールを摂取できる「鬼殺し」に変わった。鬼殺し4パックを一気に飲めば酒に強い私を、泥酔に持っていけることを発見した。
お酒嫌いのパートナーがいる部屋では飲めないので、行儀は悪いが自暴自棄の極みの私は、道端、駅前、公園、喫煙所、電車の中…、と所構わず飲んだ。
結果、何度も倒れ、「お姉ちゃんタクシーで送ってってあげるよ」という下心しかないおじさんに声をかけられることもあれば、救急車で運ばれたり警察を呼ばれたりもするような、社会のゴミとなった。
ちなみに、酒を飲みながらリピートしていた、私にぴったりなラップを貼っておく。
GADORO/クズ
これほどまでに世に取り残されたクズの心情に寄り添ってくれるものはあるだろうか。
警察でも顔と名前を覚えられるようになった私は精神科への入院を勧められるようになり、
自殺念慮も強くなり自殺未遂でパートナーが110番通報したことをきっかけに自分自身でももう限界だと感じ、精神科に入院することになった。
アルコールから隔離されて苦しさが舞い戻ってきた私は、病院で暴れ、叫んだ。そして、せめてもの救いとして、置いてあった手指消毒用の濃度の高いアルコールを手に出し、絶えずアルコールの匂いを嗅いで気持ちを和らげた。
一日一時間の外出が認められるようになると、外出してはコンビニでお酒を買い、一時間で飲めるだけ飲んで帰院した。
飲酒がナースにバレると、当初開放病棟しかない病院にいた私は「次やったら閉鎖のある病院に転院だよ」と何度も脅された。
周囲にAA(アルコール依存症の仲間がつどって一緒に断酒を目指す自助グループ)を勧められて行ってみたが、彼ら彼女らが何年も努力して断酒しつづける中、「昨日も飲みました」なんて言うのは辛くて、数回でやめてしまった。
私に「仲間」は得られなかった。
とはいっても約一年間、計5回の入退院を繰り返し、
医師やソーシャルワーカーを挟んで家族と今までのケリをつけ、
一人暮らしの部屋を得て、私は回復へと向かっていった。
現在も一番私を支えてくれているのは、度重なる私の自傷的な行動を受け止めて続けてくれているパートナーである。「苦しい時はいつでも電話して」と言ってくれる友人たちもいる。人には恵まれている方だと思う。
それでも、どん底に陥った時に私を救ってくれるものはお酒しかない……と言ったら、彼ら彼女らを傷つけてしまうかもしれない。
パートナーは、飲み干したお酒の殻を私の部屋に見つけるたびに傷つき悲しんでいる。
依存症は、周囲の人にバランスよく依存できないからこそ、モノやコトに依存するのだ、と言われる。
周囲に依存できない、そんなの私にとっては正直なところ当たり前だ。
子ども時代、一番身近に存在した家族は私にとって脅威だったし、経済的に父に依存していた母がDVから逃れられないのを目の当たりにしてきた。
まだ周囲も幼かった中高時代、家の事情を友人に話しても十分な理解を得られることはなく返って傷つくこともあったし、こころの闇を決して明かすことはできなかった。
酒に依存して、当たり前だろ。
でも大量飲酒を繰り返すことが、自分の心身を傷つけ、他人との関係を傷つけ、社会的地位も傷つけることは、十分承知だ。
だからもういっそのこと、消えてなくなりたい。その思いは消えることはない。
最近、命を落とした友人がいた。
心に穴が開くとはこういうことか、と初めて知った。混乱した。
その人の死は周囲に大きな衝撃をもたらした。
彼女の苦しみは、彼女がいなくなったことで、彼女を取り巻く人に分配された。
時間が悲しみを癒やす、そんなのは嫌だと思った。
悲しみ続けるのは違う、と前を向く人たちもいる。周りが悲しむことを彼女は望んでなかったはず。それも分かる。
でも彼女の生前に癒やされることのなかった苦しみに、思いを馳せ続けずして、生きていくのは無理だ。絶対嫌だ。その苦しみを、想像しうる限り背負い続けたい。そう思ってしまう。その考えが自傷的であることも分かってる。でも、死の淵に何度も立ったことがある私だからこそ、そう思ってしまうのかもしれない。
この一件を機に、私自身は生き続けなければならない、と諦めるざるをえなかった。
命を落とした彼女を否定したくはないから、「お疲れ様、がんばったね」と無理やり思いやってみる。
それでも、私が死んだ時、私が大切に思っている人のこころにこれほどのくびきを与えるかもしれない、という事実は私の中に刻まれた。
「絶対に死なせない」
そう言い切るパートナーを前に、「だったら、酒飲むしかないでしょ」とも思う。
ボロボロに摩耗して不安定なこころを抱えて生きるこの世は、生き地獄だ。
生き地獄を死にきれずに生き延びるためには、シラフではいられない。
それでも、私の周りには「お酒ではなく私たちを頼って」とメッセージを送り続けてくれる人たちがいる。
「人に頼るなんて危ないよ」という過去からの声が私を引き戻す。
その2つの声を行ったり来たりして、人に頼ることと時たまの大量飲酒を繰り返す。
「もう良いんだよ、人に頼っても。今周りにいる人は頼っていい人でしょ。」という声にも少しずつ耳を傾けて、一日一日、生き延びていく。
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