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デイビッドはなぜ自殺したのか?[サイバーパンク エッジランナーズの感想]

配信されているサイバーパンクのアニメを観た。すごくハマった。たとえるなら、家から出たくないときに出かける予定があるとき、ちょうど体調を崩して免罪符を得たような心地だ。それは身体どこかに空いている見えない穴にハマるパズルのピースみたいだった。メイテイは原作のゲーム版をプレイしていないが、十分に楽しめた。

※この記事にはサイバーパンクとチェンソーマンのネタバレを含んでいます。

・イケイケな狂気描写

アニメーションがすごいのは書くまでもない。強烈な色彩設計(ハイライトが緑とピンク)に支えられたアニメーションがぐりぐり動く。とくに面白かったのはグリッチ表現で、サイバーサイコシス症状で目や顔、身体が拡散してブレるところだ。何のアニメーションもせずただ位置がブレるだけ。これほど的確な狂気の描写はないと思った。

サイバーサイコシスのイメージ画像

・友情に溢れたストーリー

脚本も12話とは思えないほど濃密だった。テンポが良く、毎話くるくると話が進んでいく。そして当然のごとく親が死ぬ。仲間が死んでいく。ほとんど残らない。ルーシーの気持ちも考えてほしい。デイビッドさえいればよかったのに。

・死にたがりデイビッド

よくよくデイビッドを眺めてみると、はたと疑問が浮かんでくる。デイビッドはなぜまったく死をいとわないのか。ナイトシティで一人きりで生きていくことを強いられ、富による契約がないと医療も受けられない福祉に強い不満を持っているのにも関わらず、どうして自分を大切にしようとしないのか。
デイビッドは自分の貧しさを自覚していながら、アカデミーの中で成績を上げようとはしなかった。それどころか、母が死んでから順当さはますます失われていき、仲間や富を得た終盤でさえ、それらを維持しようとはしていない。ただただ前のめりにナイトシティを駆け回り、目の前の仕事をこなし、分前を得ていっただけだ。かろうじて守ろうとしたのはルーシーだけである。本来ならば守る対象に含まれるべきデイビッド本人は、決してそうなることはない。

・アクティブな死にたがり主人公たち

先述した死にたがり主人公の視点を持ったとき、真っ先に思い浮かんだのは鬼滅の刃の炭治郎だった。炭治郎は、無限列車編で悪夢を見せられているとき、首に刀をあて、「死ねばすぐ目覚めることができる」と気づく。それが証明できてからは、眠らされるたびに何度も自殺する。迷いなく自らの首を落とす。その判断があまりに迅速すぎて、現実とないまぜになり、猪之助に止められるほどだ。もし止められなければ、そのまま死んでいてもおかしくはない。炭治郎もデイビッドと同じく、守護対象に自分が入っていないのだ。

もっと遡れば旧劇場版のシンジもそうだ。だが、シンジには死ぬ勇気も度胸もない。何もしたくないとだだをこねているだけの子供である。ベターな選択は何もしないことであり、その結果殺されるのなら、それもベターである考えている。自分に妥協を重ね、甘やかすことで何もしない自分を肯定している。
とりわけほかの死にたがり主人公と違うのは、ベストである選択を積極的に選ばないところだ。何もしなくて済むなら、それがベターであると考えている。シンジには、自分も含めて守る対象すらない。

直近で言えば、チェンソーマンのデンジもそうだろう。デンジは普通の暮らしをゴールとしていたが、ゴールを維持することはさほど重要ではないと気づいていく。積極的に血をエンジンに注ぎ、小さな目標のために少しずつ死んでいく。ただ、デンジの場合は、チェンソーの悪魔を目当てにした外的要因が大きい。仮に悪魔が出てこない世界に住んでいたなら、生活を噛み締めて、日常をゆったりと過ごしているだろう。デンジの生活には死へ向かう内的要因がない。積極的に自ら死のうとする炭治郎、デイビッドとは違う。

・自傷行為による成長の実感

では、なぜアクティブな死にたがり主人公たちは死にたがりなのか? 現状を維持することを是とせず、痛みを無視して成長や結果を追い求めるのか?
それは、彼らが苦しむ過程そのものを実感として利用しているからである。

リストカットは、言語化できない鬱積したストレスの表現方法の一つである[1]説がある。ストレスを言語化して相手に伝えられない場合、「行動化」や「身体化」という形でストレスを発露する。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/リストカット

たとえばこれだ。リストカットは自傷行為として扱われるが、ストレスの発散が目的である。(ここで精神医学の内容を深掘りするのは難しいので、一例として、と付け加えておく)

死にたがり主人公たちにとっては、自分の無力さや、社会のいい加減さや、理不尽への不満がエネルギーとなる。それらが発露するときには、自傷行為を伴って、積極的に死へ向かう行動となる。彼らはジャンキー(もちろん、デイビッドはそもそもクロームジャンキー)であり、快いと思って死へ向かうのだ。

・デイビッドは自ら死を選んだ

つまり、デイビッドは殺されたのではなく、自ら死を選んだのだ。結果的にそうなったと言えなくもないが、デイビッドは自ら望んでいる。たとえばルーシーと共に隠居する道もあっただろうが、そうしなかった。ある程度の富を蓄えようともせず、サイバーサイコシスもいとわず、自分を強化する道を極めていった。ルーシーのために、彼は生きるのではなく、死ぬことを選んだ。

それはある種の儚さを持っている。だからかっこいい。主人公らしい。1クール足らずの短さでも、サイバーパンク エッジランナーズには、それだけの表現力があった。

追記:

サイバーパンク エッジランナーズについて、非常に面白いアプローチしている記事を見たので貼り付けておく。昨今では掃いて捨てるほど叫ばれているジェンダーにかかわる見方だが、とりわけこのアニメにも持ち込んだところが面白いと思った。

というか、けっこうショックだった。

誤解を恐れず、この記事の内容を端的に表すなら「近未来を描いていて、新しい映像作品として用意されたサイバーパンクが、古典的で典型的なジェンダー観によって台無しにされている」といったところ。

たしかに、ルーシー(そしてコードギアスのカレン)は本人が望まない形で、覗き見るような性的描写が行われている。身体への強化パーツのインストールが、アメリカ的でステレオタイプなジェンダー観を強めている。その視点で見るならば、まったくその通りだと思う。

けれどそれだけでは、すこし足りない。この男性向けで偏見にまみれているスケベ価値観は、シンデレラ以前の遥か昔からある。特に日本では。

メイテイの知る限り、覗き見をコンテンツにする手法は、平安文学、源氏物語の"垣間見"から続いている。あまりに典型的すぎて、広く作品に親しんでいるほど忘れてしまう。「ああ、こういうやつね」と。

たとえるなら、ミュージカルを観たことがない人が「いきなり歌い出したから、驚いて内容に集中できなかった。いいストーリーだったのに台無しだと思った」と言っているようなものだ。それは作者に期待をし過ぎていて、しかもオーディエンスとしては楽しむ力に欠けている。

メイテイはエッジランナーズを擁護したい。ジェンダー観、その一点を取り出して「台無しだった」は言い過ぎではないだろうか。もちろん、昨今の風潮として性差別的な内容は避けるべきとされているのはわかるし、クリエイターが社会への影響への責任を持つべきだし、時代に合った適切な表現ができる方が良いに決まっている。

その一方で、そういった風潮を無視した作品があってもいい、とは思わないだろうか。


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