「わたしのいのちはどのように生きたいのか」この問いと向き合ってみたら、10日間のバリ島リトリートに行くことになった話
当初このnoteは「わたしのいのちはどのように生きたいのか」を自分のために書くつもりで始めたが、最後おもしろい展開になったのでそれも含めて追記しました。時系列もそのままにしているので、文章のテイストが変わっていきます。それもお楽しみください。
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この問いは人生のど真ん中にある問いだ。
すべての出来事はこの問いを探究するためのメッセージだと思っている。
11月は6月からはじまったありのりさんのコアリーダー養成講座も終わり、いのちを生きる5期の講座が終わったので、改めてわたしにとっての「いのちを生きるとは何か」を内省してみようと思う。
わたしのいのちはどのように生きたいのか
現時点での私のいのちの願いである。自分とのつながり、人と人とのつながり、人と自然とのつながりを思い出すことは、わたしにとって諦められない情熱である。
いのちのつながりを思い出せた状態とは?
それは「わたしはあなたであり、あなたはわたしである」という世界が現れることである。すべての人はつながっているという世界観である。
誰かを「攻撃してくる人」と見なして「あの人はわたしではない」と対立や拒絶のエネルギーで関わるのではなく、相手が感じていることをわたしも感じられるとき、いのちのつながりを思い出す瞬間が生まれる。その瞬間は、顕在意識で「思い出した!」と認識するよりも先に、身体が涙を流したり、顔がほころんだり、場のエネルギーが和らいだりする。純度の高い神聖なエネルギーが差し込む瞬間である。このとき初めて、人と人が本来つながっていることを魂のレベルで確信できるのだ。
いのちのつながりを思い出すを分解してみた
いのちとは何か
いのちはNVC(非暴力コミュニケーション)で言うと、人がその瞬間に満たしたいニーズのことを指す。さらに、人として生まれてきた意味を持つニーズ、つまり一人ひとりがこの人生で何を目的に生きるのかという使命でもある。
つながりとは何か
つながりを説明するために、人同士の関係を例にするのが分かりやすい。たとえば、AさんとBさんが対立している場面を考えてみる。AさんとBさんの主張が真っ向から対立していると、お互いに攻撃するか、拒絶するかという選択肢しか残らない。これが「つながりが思い出せていない」状態である。
つながりがある状態とは、Aさんが自分のニーズを理解し、Bさんの主張の背景にあるニーズを理解しようとする姿勢を持ち、両者がニーズを分かち合おうとする意志を持ったとき、つながりが現れてくる。これはお互いの世界を感じ合うこと、すなわち共感の世界である。
この考えは個人の内面の葛藤にも当てはまる。自分の中に相反する部分があっても、お互いが理解し合おうとする姿勢を持つことでつながりが現れてくる。
思い出すとは何か
「思い出す」ということが重要である。いのちのつながりを「創る」のではなく、「思い出す」ことが肝心だ。もともと「いのちのつながりがある」ということを知っているという前提が大切である。この前提があるからこそ、思い出せるのだ。
この考えをもとにすると、「ある状態にするために何ができるか?」という問いではなく、「すでにあるとすると、何がそれを見えなくしているのか?」「何がそれを分からなくしているのか?」という問いに変わっていく。
「ない」から創り出すのか、「ある」から始めるのかで、同じ行動でも全く異なる現実が生まれる。
「ない」から動くと、結局つながりはないを体験する。
すでに「ある」から関わると、ある世界を体験する。
「いのちを生きる」を体現したときの私の人生の豊かさとは?
自分の内側とのつながりが深まることで、どんな自分でも受け入れられるようになる。自分の感覚や直感を信じて生きられるようになるのだ。内面的なつながりが育まれると、外の世界での対立や拒絶が減り、人と安心してつながれるようになる。
それは、これまで一人でいることが安心だった状況から、人と共にいることが安心できる時間に変わるということ。
特別な「居場所」を作らなくても、世界全体が居場所となっていく。多くの人と触れ合い、遊び、時に衝突しながらも、豊かに過ごすことができる。これを体験したくて、生まれてきたんだなと思う。
「いのちを生きる」を体現したとき、関わる人々にどのような影響があるか?
具体的には、わたしがニーズを明かし、分かち合いを始めることで、相手も自分のニーズとつながる感覚を学んでいく。対立する価値観や出来事からも、お互いのニーズを理解することで共感が生まれる。すると「AかBか」という選択肢から、両方のニーズを満たす「C」という新たな選択肢が生まれてくる。人々の持つ創造性が花開き、クリエイションの世界が現れてくる。そしてその共鳴がさらに広がっていく。奪い合いではなく、分かち合い、つながり合う世界が広がり、その輪が少しずつ伝播していくのだ。
また、私と関わる人々は、自分のいのちを生きることへの後押しをすることができる。恐れではなく、いのちから生きる人々の共鳴は大きな影響を及ぼすからだ。その結果、彼らも自分の使命を思い出し、この世界で実現したいことを創造することができる。このあたりは私のコントロール下にはないが、私がいのちを生きるとそうなってくれたらいいな~という生きる希望である。
わたしの「いのちを生きる」が見せる未来とは?
「いのちのつながりを思い出す」ことで戦争のない未来があると思う。
自分の内面的な対立がミクロの世界なら、マクロな世界では戦争に相当する。自分とのつながり、人と人とのつながりを育むことで、戦争のない未来は見えてくる。
どっちが良い悪いではない。
どちらにも大切にしたいこと、願いがあるのだ。
それを聴き合うこと、分かろうとし合うこと。
その一歩が平和への一歩になっていく。
じゃあ私は何をしていくのか
ここまで書いてみての感想
現在やっている活動がいのちに適っているからこそ、快不快、できるできない、得意不得意を超えて情熱につながって”やる”と決めていることだと思った。
これらの活動は引き続きやっていくことだが、ここまで書いていて、
それはこの願いを持っていると、このようなことを始めるよねと想像の延長線上にあることでもある。いいのだが、なんだか物足りない。
斜め上、もしくは時空を超えていきたいという感覚になった。
願いに意識的になることは情熱につながって生きることでもあるが、同時にそれ以外のことが見落とされる可能性が高いのではないか。それが直感的に”物足りなさ”となっているのではないかと思った。
実はここまで書いて、締まらなかったので数日寝かせてみた。本当はすっきりして、noteを出したかったのだが、本当にこの願いなのだろうか?本当にやりたいことなのだろうか?と悶々としてきたのでそっと閉じた。
後日起こったこと、ここからがおもしろい!!!
数日後、とあるコミュニティーの対話会に出たときだ。みんなの近況報告をしていた。すると一人の方が、
とめっちゃ楽しそうに話している人がいた。
なんだこれは。
しかもその場にいた人が「こんな方法あるよ!」ってアドバイスをしていた。
知っているんかい!!ってなった。
これを目の当たりにしたとき、私の中の何かが開いた。
これでも人って生きていけるんだ~~~~~(最大限のリスペクト)
しかもめっちゃ楽しそう~~~~やないか。
ぶっ飛んだ感じ、行き当たりばったりな感じ、直感に従うものの、やばいことはやばい感じ。でも楽しそうな感じ。それさえもオープンにして人に頼ろうとしている感じ。
この自分をなかったことにして生きているのかもしれないと思った。
そしてこの感覚のまま過ごしていると、直感的にバリ島に行きたいってなり、10日間のバリ島のリトリートにその日に申し込んだ。
ほぼ初めましての人たちと、初リトリート、初バリ島、初の海外長期滞在、入っている仕事も調整してもらって、お金いっぱい出ていくんだけど、迷いはなかった。
自分の願いと真剣に向き合ってみたら、なぜかバリ島のリトリートに行くことになった。
今思うと、結果的にいのちのつながりを思い出す選択をしたんだと思った。
これまで体験したことがないことを体験して、「やばい、一人では生きていけない。だれか助けてほしい。」って思いたいんだろうな~と思った。それでもすべての人はつながっている体験をするために。
(余談)そして昨日、湘南で対面ワークショップに参加した際、目の前の方と話していたら、その方も同じタイミングでバリ島に行く予定で、たまたまフリーの日が重なり、向こうで遊びましょうとなった。(なにこれ)
せっかくだから、この体験の学びも振り返ってみよう。
こんな学びをいのちにさせられた。
何をしてようが、してまいが、いのちが教えてくれる。
それに委ねて生きていくだけだな~と思った体験でした。