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ルソーの言説には、いちいちクソリプを送りたくなる。エミール(上)#1 〜訳者解説・序・第一編〜

私がエミールに惹かれたのは、ルソーの有名な逸話を知った時だった。
1762年に出版されたÉmile, ou De l’éducation(エミール、または教育について)。副題にもあるように教育についての本であり、出版から260年経過した現代の教育界においても名著とされているようだ。フランス革命後、国の教育制度を刷新する際に重要参考文献として扱われた背景があるようだ。
そして、ルソーといえば子供を5人捨てたことで有名だ。しかし、倫理の授業がカリキュラムに存在しないような低等な学舎で育った私は最近そのことを知った。余談だが、私の出身校には夏休みの宿題がなかった。教師に理由を尋ねた際、はぐらかされたのを覚えている。

話が逸れたが、エミールに強く惹きつけられた私はすぐに文庫本を購入した。パラパラと読んでみると、骨太な本だが主張自体に難解な部分はなく、集中力との戦いだろうという印象だ。しかし、読み進めていくと、集中力もさほどいらないことが直覚でわかった。
なぜならこの「エミール」、超面白いのだ
フランス革命後に重宝された思想家の視点というのは、やはり我々とは大きく異なっている。それは作中で本人も述べている。独特な視点から形容される「子供」というのは、私が思う「子供」とは大きく異なったものだと感じた。しかし、本当に面白いのはそこではない。端的にいうと、ルソーの主張の語り口が老害のそれにそっくりなのだ
名著だけあって、一つ一つの主張に激しく納得させられる。しかし、反芻してみると、けっこう穴があるように感じる。そして、その穴を見つけていくことが非常に楽しい。最低だと思う。

そんなわけで、ルソー「エミール」のレビューを認めていくことにした。
本書(岩波文庫)の構成は(上)(中)(下)の3冊に分かれており、第五編までの5部構成になっている。それぞれ長さが異なるため、noteが何回分になるのかはわからないが、飽きるまでは続けるつもりだ。

※最初は数本の記事にまとめるつもりだったが、1.5万文字に到達した段階での
 進捗が第一編の1/3までとなっており、全編が終了した段階となると
 非常に長い記事となることが予想される。
 そのため、記事に文字数制限を課すこととする。
 一つの記事あたり1万文字以下に収めることを条件とし、本シリーズの執筆を
 進めていく。


【事前情報】

ルソーについて

エミールについて

この本は、ルソーが(架空の)一人の男児を産まれた瞬間から結婚するまで教育するという内容の本であり、その子供こそエミールである。
つまり、エミールという人物は地球上に存在しない、イマジナリー男児なのである。

本書の目的について

社会の公共教育と違って家庭教育の目標は一つであるため、学徒は一貫性のある人間になるという。そして、そういう人間を知るためには、すっかり出来上がったその人間を見ることが必要だと言う。そして、その人間こそ自然人と呼ばれるものだという。
つまり本作においてエミールとは自然人であり、エミールの成長過程を知ることで初めて自然人を知ることができるということだろう。
(この項は、話の流れを重視して「熱烈な社会批判(弱気)」〜「またしても公共教育の批判」の間から移動させたものだ。「序」に書くべき内容がなぜそんなところに出てくるのか。これが自然な構成なのだろうか。。。)

この本は本人曰く「二十年間の省察と三年間の仕事を必要とした著作」らしく、ルソーがフランスの都市リヨンで家庭教師をしていた28歳の頃から構想され始めた、いわば超大作だ。
ルソーの思想を大きな枠組みで考えると、『人間不平等起源論』『社会契約論』『エミール』は3部作構成の関係があるようだ。ルソーの思想。
勘違いをしてはいけないのは、この本は実用書としてつくられてはいないということだ。あくまで原則を述べたものだという。
私は逃げ口上だと感じたが


【訳者解説】

岩波文庫版エミールの訳者である今野一雄氏の解説

この本の核となる教えは「自然に従うこと」であり、それゆえルソーは自然に逆らうことを極端に嫌う人間だったようだ。
当時のフランスでは乳母に子育てを委託することが一般的だったようで、ルソーは世の母親たち(貴族や大ブルジョワ)にむかって、女性は自然によって乳房をあたえられているのだから、自分の子を自分でやしない育てなければならない、と熱心に説いていたらしい。この話は第一編で大きく取り上げられることになる。(因みにエミール出版100年後ほどのフランスでは乳母産業が発展したらしい)

ちなみに、なぜ自然に従うべきなのかという話は第一編で取り上げられるが、ここで概要を説明しておくべきだろう。
ルソー曰く、人間の教師は、「自然」「事物」「人間」の3種類に分類される。そして、3つの教師が全て同じ方針で教育してこそ、ようやく人間を教育したことになる。しかし、自然も事物も人間にはどうしようもないため、人間にできることは、自然と事物の教育方針に合わせることしかない。つまり人間が人間を育てるときには、自然に従った教育方針を取らねばならない。ということらしい。

ルソーは性善説を信じているきらいがあり、人間はよい者として生まれているが、社会は人間を堕落させると考えていたようだ。
しかし、この命題を聞いた感想として「子供は無邪気だからな」とか「あの頃は何も知らなかったからな」とかを思うようでは、ルソーの論旨をわかっていないと言える。なぜならば第一編の論旨を裏返すと、教育の仕方を間違うと、物心ついたころにはすでに悪人が完成してしまうと言えるからだ。
ルソー曰く、産まれた直後に赤子を産着で包むことからすでに自然に反しているという。つまり、それこそが社会と人間の関わり合いの始まりであり、悪人の始まりでもあると言えるだろう。

訳者は解説の最後に、ルソーの言う自然について考察している。
曰く、「自然というのは、この、不合理なことがいっぱいある、不自然な社会にたいして、やがて生まれ出ようとしていた新しい(※革命後の)社会の理想を意味するのではないか」と。
訳者もいうように人が集まればそれは社会になるのだから、社会と自然がほぼイコールなものになって初めてルソーの理想が実現するということだろう。ルソーの理想。


【序】

人は子どもというものを知らない

これは、ルソーが子どもの発見をしたということで世間にインパクトをもたらした主張になる。論旨としては、子どもと大人では世界の見方をはじめとした様々な点において異質である、といったところだろう。そういった、子どもを知らない人々を
「かれらは子どものうちに大人をもとめ、大人になるまえに子どもがどういうものであるかを考えない。」
と揶揄している。外国語や音感の発達が目覚しい幼年期での教育手法が発達している現在の英才教育は、ルソーからしたらナンセンスなのだろうか。

ルソーは本作における主張に権威がつくとは考えていないと綴っている。
迫害を受ける生活を長らくしていたルソーは、自分の主張を反対されることは前提として考えているようで、自分の主張に現実味がない点があることを理解した上で執筆をしたようだ。
そして、
実行できることを提案せよ
という反対意見に対し、
「ある種の問題においては、わたしの計画よりもはるかに空想的だ。」
と揶揄した上で、
よい方法を中途半端に採用するよりは、いままでの方法にそのまま従っていたほうがいい。人間にはそれだけ矛盾が少なくなる。」
と述べている。無能上司みたいだ。
論旨としては、中途半端にいい方法をとると今までの手法と矛盾する点がでてくるため、よくないと言っているのであり、後に計画を立てる際の要点を2点挙げている。
1点目は、計画が絶対によいものであること
2点目は、実行が容易であること
つまり、上記2点を網羅した提案をすれば薄弱蘊蓄引用をしてきた上司を圧倒できることになる。何らかの計画に係る部署としては原則なのだろうが。


第一編

社会から離れ、田舎に帰ろう

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

開幕一文目からなにを言っているのかわからない。しかし、これはキラーワードであるということが、読み進めていくとわかってくる。

人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。

という一文が論旨の核だと思われる。人間は自然を改変してきた。それは人間自身もそうだ。現代の人間は生まれた瞬間から助産師に囲まれており、その後も親や教師など数えきれない人間によって教育を受ける。このような自然に反する社会制度の上では、自然に反した人間が形作られることになる。といった主張だと受け止められる。

さらにルソーは強い言葉を使って主張を続ける。
「社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう。」
なんにももたらさないことになるとは私は思わないが、自然シンパのルソーからすると、高等な教育を受けた人材が作り上げてきたこの社会は無価値なのだろう。


では、子どもを自然な人間に育てるにはどうすればいいのか。
そのための最初の責務は、子どもの母親に課せられているという。

大きな道路から遠ざかって、生まれたばかりの若木を人々の意見の攻撃からまもることをこころえた、やさしく、先見の明ある母よ(以下略)」

ここでは多くを語らないため、何を言っているのかさっぱりわからないが、後々に登場する主張を鑑みるに、おそらく「田舎に行こう」ということが言いたいのではないだろうか。文章がとても煽動的な上、何をいっているのかわからない。まるで政治家のようだ。私はこの文章の構成こそ、社会の教育の賜物だと思えてならない

もしルソーが現代に生きていて、TwitterなどのSNSをしていたら、
もっと自然な文体で書いてくれませんか?
というクソリプを送ってみたい。と思ってしまった。

3種類の教師

「わたしたちには力が必要だ(中略)大人になって必要となるものは、すべて教育によってあたえられる。」

本作を読みはじめた段階での感想にはなるが、ルソーは教育についてを語ることに必死で、具体的にどんな能力を育てる必要があるのかについては触れないため、主張の内容が理解しにくい。
大人になって必要な力とはいったい何なのだろうか。ひとまず続きを読んでいく。

この教育は、自然か人間か事物によってあたえられる。

先述したが、エミールの教育方針の核はこれだと言える。
それぞれが人間にどのような教育を施すのかというと、以下のようになる。

自然:人間の能力と器官の内部的発展
人間:自然の教育をいかに利用するべきかを教える
事物:人間を刺激する事物について、人間自身の経験が獲得するもの

いかがだろうか。全くMECEでないが、意図を汲むことはできる。

自然の教育というのは、成長につれて背が伸び、力がつくといったもののようだ。これに関しては、我々が想像するような一般的な意味での教育とは異なったもののようだ。おそらくだが、身長が伸びるのも力がつくのも全て誰かに教わってのものではない。しかし、それこそ自然の手解きによるものなのだ。といったことを言いたいのではないだろうか。

人間の教育というのは一般的な意味の教育で、子どもがなにか話せるくらい器官が成長してきたら、言葉を話せるようになんらかの手ほどきを施すといったことだろう。

事物の教育というのは、熱いものに触れると苦痛を感じるため、熱いものには近づかないようにという学びが事物によって与えられる、ということだろう。

「これらの先生のそれぞれの教えがたがいに矛盾しているばあいには、 弟子 は悪い教育をうける。(中略)それらの教えが一致して同じ目的にむかっているばあいにだけ弟子はその目標どおりに教育され、一貫した人生を送ることができる。こういう人だけがよい教育をうけたことになる。」

いまのところわかっているのは、ルソーの教育に従うことで何らかの点に関して一貫した人生を送ることができるようになる、ということだけだ。
そして、「自然の教育はわたしたちの力ではどうすることもできない。」という前置きをした上で、

目標に到達するには幸運に恵まれなければならない。  この目標とはなにか。それは自然の目標そのものだ。

と記述している。ツッコミどころが多い。
まず、自然の目標とは何かという点においての解説が全くない。一文の価値もないビジネス書ですら、読者は「金持ちになりたい」という下卑た目標をひっさげて本を開くのだから、、、


痛恨のミス

と、ここまで難癖つけたところで、もしかしたら社会契約論とかに自然人について書いてあるのかもしれないと気がついた。wikiに記載のある目次を見ると、

第1篇 - 自然状態、社会状態、社会契約の本質的諸条件

と、バッチリ書いてあった。
私は読む本を間違えたらしい。
いずれ社会契約論を読むであろうこと、私がすでに第一編を読み終えていること。コンコルド。。。
さらに調べたところ、「人間不平等起源論」から自然状態がテーマのようだ。確かに、論文公募の内容を考えると納得がいく。

私が出した結論は、現在読了した第一編に関しては記事を執筆し、その後人間不平等起源論を読み始めるというものだ。ご理解いただきたい。


自然の定義

気を取り直して続きを記述していく。

自然ということばの意味はあまりにも漠然としている。ここでそれをはっきりさせる必要がある。

いくら他の著作で自然について散々語っているとはいえ、この著作はエミールという小説のような形態をとった一作品とも言える。やはり自然を定義しないと話にならないというのはルソーも認識しているようだ。ということで、続きを引用する。

「自然とは習性にほかならない、という人がある。」

のっけからとても怪しい

続いて。

「これ(最前の引用文)はなにを意味するか。強制によってでなければ得られない習性で、自然を圧し殺すことにならない習性があるではないか。」

と、謎の論理展開をした後に、例としての事例を紹介する。ここで登場する事例は、鉛直方向に成長する傾向を障害物により妨げられた植物の話だ。
植物が鉛直方向に伸びることができないとなると、障害物に沿って伸び始める。そこで障害物を取り除くと、しばらくのうちは障害物がまだそこにあるかのように伸びていくが、いずれは鉛直方向に伸び始める。といったものだ。そして、この事例の植物を人間に置き換えても、全く同じことがいえるという。直覚で理解できる。わかりやすい例え話だ。

そして章の最後はこう締めくくられている。

ところで、教育されたことを忘れたり、失ったりする人があり、またそれをもちつづけている人もあるのではないか。このちがいはどこから生じるのか。自然という名称を自然にふさわしい習性にかぎらなければならないというなら、右のようなわけのわからないことを言わなくてもいい。

うん、で、自然の定義は?

続いて。
ルソーは感官を刺激する事物について、人間がどのように成長を遂げるのかという傾向についての話をし始める。

「はじめは、それが快い感覚であるか不快な感覚であるかによって、つぎにはそれがわたしたちに適当であるか、不適当であるかをみとめることによって、最後には理性があたえる幸福あるいは完全性の観念にもとづいてくだす判断によって、それをもとめたり、さけたりする。」

人間は成長段階に応じて我慢を習得したり、自分が不快な思いをしても他人のことを助けたりする。(自己改善能力であるヘリフェクティビリテの話だと思われる)ということが言いたいのだと私は考える。あっているのならば、いい話だと思う。つまり、この理論に従うのならば、痩せたいのに暴食という不適当な行動を犯してしまう人間は子どもというカテゴリに分類されるだろう。しかし、よく考えてみるとこの話には道徳が大きく関わっているのではないだろうか。事物の教育が人間に道徳を与えるのだろうか。しばらく考えてみたが、良い反例が浮かばなかった。

ルソーはこれに加えて、私たちの習性と臆見こそがその傾向に悪影響を与え、変化させてしまうのだと記述している。
そして、

この変化が起こるまえの傾向が、わたしたちの自然とわたしが呼ぶものだ。

と締めくくっている。
自然を定義するまでの文章が長いあと、この結論に着地をするのならば、植物の話いらなくない?


3行でわかる自然人と社会人の違い

自然人は自分がすべてである。かれは単位となる数であり、絶対的な整数であって、自分にたいして、あるいは自分と同等のものにたいして関係をもつだけである。」

これだけでは、一見何を言っているのかがわからない。しかし次にとてもいい文章が記述されている。

社会人は分母によって価値が決まる分子にすぎない。

自然人と社会人の違いをたった3行ほどで完璧に説明して見せた。と私は感じた。これができるのならば自然の定義の説明をもう少し考え直して欲しいものだ。

そしてこう付け加えている。

りっぱな社会制度とは、人間をこのうえなく不自然なものにし、その絶対的存在をうばいさって、相対的な存在をあたえ、「自我」を共通の統一体のなかに移すような制度である。

これは金言だと感じた。蒸気機関の発明に伴う機械式工場の乱立や、のちの世界大戦に向けた人員の育成、日本でいうところの富国強兵政策をうまく詰っている。
この文章を読むと、義務教育の愚かな部分ばかりが想起されてしまう。

それ以降はの文章では、社会人、市民というものがどのようなものであるのか、どのように自然に反しているのかが記載されている。とても面白い話だが、長いため割愛する。

つぎの章では、はんたいに自然人について軽く触れている。

「なにものかになるためには、自分自身になるためには、そしてつねに一個の人間であるためには、語ることと行なうことを一致させなければならない。

とてもいいことを言う。と感じた。しかし、その後に自然人になる方法についての記述が続くわけでもなく、

そういうすばらしい人間をだれか示してくれるのをわたしは待っている。

と締めている。なんだそれは。拍子抜けだ。
それに、その判例を示すための「エミール」だったはずでは?

時に、私は一人そういうすばらしい人間を知っている。
それは、ディオゲネスだ。
彼は公私をキッパリ分けることが常識とされていた古代ギリシャ時代にて、公私を分つことには一貫性がないという格率を持っており、アゴラと呼ばれる広場で自慰行為をしていた。彼は世界市民と名高いが、自然人のほうがしっくりくる気がする。


熱烈な社会批判(弱気)

ルソーは家庭教育と公共教育の間には対立があり、それは目的の違いから生じるものだという。本書では公共教育について知りたい人間には、プラトンの「国家」を読むとことが勧められている。軽く国家のwikipediaを読んだためルソーの主張に沿って内容を雑駁に記載しておくと、社会における一個人の道徳を説いている部分が多いようだ。

加えて

「祖国」と「市民」という二つのことばは近代語から 抹殺 されるべきだ。

という、またしても強烈な言説で締めくくっている。
先の自然人の主張を鑑みると主張が理解しやすい。自然人は一人で一単位であり、自然人が何人集まろうがそれは自然人が集合しただけで意味上の社会にはならないということだろう。訳者解説でも記載があったが、自然人かどうかに関わらず人の集まるところには社会がある。私もそう思う。しかしそこに社会はあれど、社会性というものはないのだろう。

学院と呼ばれる笑うべき施設をわたしは公共教育の機関とはみなさない

ディジョン科学アカデミーが学院(コレージュ)と同義なのかはわからないが、ルソーはアカデミーに論文を投稿してバズった癖に痛烈に批判、というか嘲笑している。コレージュというのは全寮制の中等・高等教育をしていた施設のことのようだ。推測だが、学徒は学舎で学問を学び、寮では社会性について学んでいたのだろう。そのような施設を笑うべきだとルソーは記述している。それはなぜか。ルソー曰くそのような世間の教育では二つの相反する目的を追求しているため、教育を受ける学徒はどちらの目的にも到達できないからだという。そして、気の利いた文章で締めくくられている。

それは、いつも他人のことを考えているように見せかけながら、自分のことのほかにはけっして考えない二重の人間をつくるほかに能がない。ところが、そういう見せかけは、すべての人に共通のものだから、だれもだませない。すべてはむだな心づかいということになる。

やや現実を誇大に曲解した妄想だとは思うが、とてもいいことを言う。
依然として世間の教育の具体例が挙げられないため、意味を推測するしかないのだが、これは社会人として生きる人間ならば万人が理解できるだろう。
例として、出世レースのことを考えるとわかりやすいだろう。

この矛盾した教育を受けるとどうなるか。ルソーはこう述べている。

自分にとっても他人にとってもなんの役にもたたなかった人間として、人生を終えることになる。

過言だ。どのような教育を受けてきたからといって、定職につくことで他人の役に立つことはできると私は考える。確かに現代では意味のない仕事は山のようにある。特に筆記用具の開発なんかは真っ先に槍玉に挙げられるだろう。筆記用具の歴史についてはまるで知らないが、直近で起きた革命といえばフリクションくらいのものだろう。そのほかのものに関していうならば、デザインがやや異なるくらいで本質的には数十年間何も変化していない。筆記具開発業務はまさに資本主義が生んでしまった負の遺産でしかないため、業界人を揶揄するつもりはないが。

しかし、人の役に立っている職業も山ほどある。たとえば、ルソーが嫌悪している医者がそうだろう。ある医者が生涯で助けた人間全員が生涯無職の引きこもりだったとしても、だ。生活のためには食を必要とする。食のためには経済に参画しなければならない。眼に見えるものだけが全てではないのだ。

余談だが、ルソーはコレージュを笑うべきだと記述したため、当時学校教育の一大勢力であったイエス会士からの報復を受けるのではないかとビクビクしていたらしい。

じゃあそんなこと書くなよ


またしても公共教育の批判

社会秩序のもとでは、すべての地位ははっきりと決められ、人はみなその地位のために教育されなければならない。その地位にむくようにつくられた個人は、その地位を離れるともうなんの役にもたたない人間になる。

いつまで公共教育の批判をするんだこのおっさん。
確かに本質をついたいいことを言っているが、この話をするならば公共教育の批判を最初にした項で述べるべきだし(「事前情報」参照のこと)、これまでの論説を聞いた人間ならば、そんなことは自明だ。記事としては削るべき箇所だが、私はここを拾っておきたい。
なぜならば、ここにルソーの徹底的に相手を排斥するという執着心が見られるからだ
やはりこのおっさん、老害の気質がある


自然人の天職は、人間であること

自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。

ルソーの教祖的なカリスマ性が感じられる格言から、自然人についての説明がはじまる。ここでルソーは、自身の生徒が将来どのような職業に就こうがどうでもいいと述べている。そして、息子が必ず家業を継いでいたとされるエジプトの例を用いて、生徒に求める最重要項についてこう述べている。

両親の身分にふさわしいことをするまえに、人間としての生活をするように自然は命じている。

これは紛れも無い狩猟最終民利権だ。食生活の本や睡眠に関する本を読むと必ずでてくるヤツだ。過去に私が睡眠の質を高める方法を纏めた記事を執筆した際に、参考文献として読んだ本の大半に書いてあった。というか、ルソーは序章で乳児や乳母の食事メニューに関しても同じようなことを記述していた気がする。

そして最後におしゃれ引用で締めくくっている。

「運命の神よ、わたしはあなたをとらえ、とりこにした。あなたがわたしに近よれないように、すべての通路をしめきった。」

キケロ「トゥスクルム論議」第五巻第九章

意味はサッパリわからない。


早速1万文字を超えそうになったが、本編分では1万文字を超えていないため今回はここまでとする。


【割愛した部分】

3行でわかる自然人と社会人の違い

あるスパルタの婦人は、五人の男の子を戦場に送った。そして戦闘の知らせを待っていた。知らせの 奴隷 が到着した。彼女はふるえながら戦闘の様子をたずねた。「五人のお子さまは戦死なさいました。」「いやしい奴隷よ、わたしはそんなことをおまえにきいたのか。」「わが軍は勝利を得ました。」母親は神殿にかけつけて、神々に感謝を 捧げた*。これが市民の妻だ。社会状態にあって自然の感情の優越性をもちつづけようとする人は、なにを望んでいいかわからない。たえず矛盾した気持ちをいだいて、いつも自分の好みと義務とのあいだを動揺して、けっして人間にも市民にもなれない。自分にとってもほかの人にとっても役にたつ人間になれない。それが現代の人間、フランス人、イギリス人、ブルジョワだ。そんなものはなににもなれない。

位置: 352

【出典欄】

・ルソーについて

・乳母産業について

・コレージュとは

【乞食欄】


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