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第2回 実践と理論の二刀流で得たもの(後編)

研究室には漁師町の小学校(浜頓別町立頓別小学校・現在は廃校)の思い出の大漁旗が

芳賀 均 准教授(国立大学法人 北海道教育大学旭川校)

前編では、芳賀先生が明星大学大学院の通信教育課程で学ぶことになったきっかけや、そこで得たものについてお話いただきました。

 続く後編では、小学校の教員として勤務しながら、教育評価の研究を深めていった博士後期課程での日々について語っていただきました。日頃の教育活動の中で、さまざまな悩みや葛藤を抱えている現職の先生にとっても、大きなヒントがたくさんあると思います。ぜひお読みください。


2009年に修士号を取得後、明星大学の博士後期課程に来られる際に、長年過ごした北海道から東京へ移られていますが、迷いはなかったですか?

 不安はありましたけど、迷いはありませんでした。前編でお話ししたとおり、老後は宗谷に建てた家で暮らすことを決めていましたから、仮に定年まで東京から帰って来られなくても、そこまでは頑張ろうと思っていました。帰る場所があったから、迷いは生じませんでした。博士後期課程と研究生を併願して、もし博士後期課程で落ちても研究生として入れてもらおうと決めて上京しました。

なかなかの覚悟ですね。大学院の博士後期課程では、どんな研究をされたのですか?

 明星大学では本当に素晴らしい先生方に出会いました。なかでも、高浦勝義先生から教わった「教育評価」には衝撃を受けました。修士課程で2年間学んで、専門性を身につけた先生として北海道でやっていこうと思っていた矢先に、教育評価という研究の魅力に触れて、私が探究したいのはコレだ!と感じました。それで、引き続き明星大学で学ぶため、博士後期課程を受験することにしました。

音楽科がご専門だった芳賀先生が、教育評価に関心をもった理由は何だったのですか?

  教育現場で矛盾やモヤモヤを抱えていたことと、高浦先生の講義を受けてみんなが避けがちな評価を研究してみたいと思ったからです。修士課程でご指導いただいたことに加えて、教育評価を研究することで、より物事の見方がシャープになるのではないかと思いました。教育評価の研究は音楽科に限らず、学校のすべてに通じるものですからね。院生時代の私は音楽を離れて高浦先生のもとで教育評価を研究することになりました。

 今回、お話の機会をいただいた板野和彦先生は音楽教育がご専門で、博士後期課程のスクーリングでご指導いただきました。今でも研究会などでお世話になっています。

芳賀先生が当時作成した博士論文と修士論文

上京後は、東京都の小学校教員として勤務しながら、教育評価の研究と論文執筆の同時進行。大変ではなかったですか?

 朝の6時に家を出て、授業をして、放課後に同僚の悩みを聞いていたらいつも終電。その後に研究の時間をつくって、ちょっと寝たらもう次の朝。満員電車に揺られながら、本を読んだり、論文を書くために閃いたことをボイスレコーダーに録音したり。そんな毎日でした。
 
 しかし、苦ではありませんでした。むしろ楽しかったです。なぜかというと、明星大学で学んだことがすぐに活かされて、日々の仕事がどんどん改善されていったからです。他の先生から、「芳賀さんは、あんなユルい感じなのに、どうしてクラスの子どもたちがまとまるの?」と不思議がられることがありました。だけど私は、理論をしっかり学んでいれば、ある程度のことは対応できるのだと、身をもって実感していました。教室内での問題も、あと3日待てば良くなるとか、これは一週間かかるとか、私が言っているとピタッとハマるわけです。そこで感じたことや結果を書き留めて、本を読んで“これは”と思ったところを整理した結果が論文になったという感じです。
 
 実践と理論を行き来しながら、精度を高めていけたのが良かったのだと思います。それから、教育評価を研究したことによって、子どもへの声の掛け方もより緻密になりました。コレを言っちゃいけないなとか、前にああ言ったので今はこう言っちゃいけないなとか、ピンとくるようになりました。

理論に基づいて実践することで、より精度が高まるのですね。しかし、そんなにいつも緻密にできるものなのでしょうか?

 私もそう思って、高浦先生に聞くと「うん、こんなに細かいことをいつもやるのは、実際にはできん!」とおっしゃっていました。しかし、次の一言がとても重要で「でも、一回、徹底的にきっちりやると、後が違うんだ!」と。一度やってみることで、ものの見方が変わる。感覚が完全に変わるのだということなのです。私自身も、論文執筆を遂げていく過程で、感覚が変わっていくのが明らかにわかりました。論文は書くことが目的ではなくて、それを実践することで養われるものがあるのだと思いました。

博士後期課程修了時の学位記授与式の様子(2012年3月)手前は小川哲生学長(当時)

論文を書き上げて、しばらく小学校の先生を続けられた後に、大学教員になられていますが、心境の変化があったのですか?

 勤めていた学校の校長先生に管理職になれと勧められたのと、新卒の頃に生涯一教員として職務を全うされた大ベテランの先生に「絶対に校長になれよ。そうしないとお前のやりたいことはできないぞ」と言われたことを思い出して、そろそろ管理職を目指さなければいけない時期なのかなと思うこともありましたが、担任がとにかく楽しかったのです。しかし、そんな時、小学校2年生の体育の授業をやっていて、「ケガしないために、しっかり準備運動やるんだぞ!」と指導する私自身が、なんと、準備運動で肉離れを起こしてしまったのです。その日は、経験値の賜物か、口で指示して難なく授業ができたのですが、子どもたちと一緒に汗を流してやるのが大切だとずっと思ってきたので、すごく嫌な気持ちになりました。師弟同行といいますか、同じことができなくなってしまい、これは現役を退く時かなと感じました。

 そんな感じで管理職になろうかと思っていたら、ちょうど北海道教育大学旭川校で教員の公募があり、東京の昇任試験と北海道の大学教員の両方を受けてみることにしました。その結果、北海道にご縁があり、再び戻ることになりました。

 心境の変化があったのか?というご質問ですが、気持ち的には小学校教員のままです。このあいだも大学生たちと、留萌という旭川から7、80キロ離れたところに行って、鍵盤ハーモニカを自転車の空気入れで吹いて音を出す出前授業をしてきました。これはコロナ禍にあって、口で吹けない中どうやって音楽の授業をやるかというところから始まっているものです。現場の問題をなんとか解決したいという思いは、大学教員になった今も、ずっと変わらずに持ち続けています。

出前授業の様子(森健一郎撮影)

最後に、明星大学大学院の通信教育課程で学んで良かったこと。おすすめしたい点はありますか?

 私は、明星大学で学んでいなかったら、おそらく破綻していただろうと思います。現場一辺倒で、やり過ぎてしまって、どこかで無理がきていたと思います。あるいは、どうにかしようと無茶をして身体を壊していたかもしれません。

 良かったことは、知り合いの幅が格段に広がりました。さまざまな分野の方と出会えたことで、人生がとんでもなく豊かになりました。大げさに聞こえるかもしれませんが、明星大学で学ばなかったら、まったく違う人生だったと思います。

 おすすめしたい点も、ここが人と人をつなぐ場所で、その中で本来の自分が見つかる場所だということ。北海道の宗谷で小学校の教員をしていた当時の私のように我流でやり続けた結果、埋もれてしまう人もいるかもしれない。もし、そんな不安を抱えている先生がいたら、ぜひ明星大学大学院の通信教育課程を知ってほしい。埋もれそうになっている土を払ってくれる環境があります。

 私の話を読んで、共鳴してくれる方が一人でも多くいてくださることを、北の大地から願っています。

北海道の大自然に囲まれて生活しています
自宅の庭にはうさぎが訪れることも