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藤代雑記。#1「太陽のあし」

立秋の知らせにつられたのか、早朝や夕方には、その風を感じるような気がする。微かに、大気の熱にも疲れが感じられ、今年はこのくらいにしておこうか、という声が聞こえるようだ。

私の住む東京の多摩地区、町田は海が遠いこともあって熱が籠るようだ。海辺よりも気温が数度余計に高い。そして、都心よりもなぜか高い。

風を通そうと網戸にしておいた家の窓からは、風は風でも熱風が入ってくる。さすがに敵わなくて、南側の雨戸を閉め、ガラス窓を閉め、二重に熱を入れないように工夫した。そして、それはそこそこ効いた。

ほんとうなら南は太陽の入り口なので、できれば窓から迎えるようにしておきたい。部屋の奥にいても、南の窓を向いていれば、刻々と変化する影や日当たり模様をきっかけにして、太陽の恩恵に優しくなれる。

だが、今年の夏は体温を超える日が続いた。太陽の恩恵も昼間は避けるよりほかはなかった。窓辺に立つだけで、外の尋常じゃない熱気が伝わってきた。

仕事部屋の冷房は、外気温との差を考えて28度より下げないようにした。快適なはずなのに体はだるく、仕事に集中できないことが多かった。

そういう時は、近所の図書館や喫茶店に行き、そこでなんとか形になるまで粘ることができた。図書館には、私のように家では集中できない人たちが、それぞれのやるべきことに取り組んでいたから、その緊張感も仕事上良かった。

夕方帰宅して、そろそろかなと雨戸を開けると、なお喧嘩腰の西陽が床まで差し込んだ。すぐに脛の肌が焼けるように熱くなる。

それでも少しの間様子をみていると、外の熱風が家の中に乱入するかのようで、たまらず元のように雨戸とガラス戸を閉めた。

その僅かな間ですら、陽が当たった床は熱湯を零したかのように熱く、太陽というのはこれほどの力があるものかと、あたらめて畏敬の念を持ち直した。

やがて空が翳り始めた頃になって、雨戸とガラス戸を開けた。

するとそこには近所の地域猫ニャーニャが網戸にへばりついてごはんをねだって待っていた。彼らにしても、ようやく食欲が戻る穏やかな時間となったのだろう。思えば、この酷暑の中、昼間はどこで凌いでいるのか。

カレー作りで残っていたサバ水煮を与えると、ニャーニャはガツガツと食べ始めた。普段は無愛想な猫だが、餌を与える前後のみ交換条件のように撫でさせてくれる。

私はニャーニャが美味しそうに食べる様子を眺めながら、今日も無事終えられそうだと安堵する。


ニャーニャ見参。サバ缶が気に入ったご様子。

夏は、一見あらゆる生命が太陽の季節を謳歌しているようだが、庭に立っていると、命尽きる昆虫や植物を目にすることも多い。夏枯れの草や蝉の亡骸は、生を繋いでいくことの使命と困難さを伝えている。

気が向けば、私は玄関先や庭のウッドデッキに夕刻の打ち水をする。それによって昼をたたみ、夜を迎える切替とする。

気怠くなりがちな夏の日に、背筋を通すような行いである。

今年の東京の夏は暑かった。熱かったと書きたいくらいだが、高校野球のようで、ちょっと合わない。記憶への補助線として、雨戸を閉めるくらいの暑さだったとしておこう。そういうことはこの半生で初めてだった。

そして、この東京の暑さによって、沖縄の夏は涼しいということも初めて知った。島の夏は東京ほどではない。

まだまだ、私にも初めてが起こるのだと、ほほうと思った。



                           





 

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