見出し画像

1995年のバックパッカー24 ネパール1 カトマンドゥ1 牛と猿と歓喜仏、あるいはウィズダムアイ。

カトマンドゥは朝から雨だった。

土曜日はネパールでは休日に当たるらしく、商店の多くが閉まっていた。とりあえず歩くかと、人の集まるダルバール広場を目指してタメル地区を練り歩いた。時折雨が強まったが、暖かい日だったので、濡れても気にならなかった。

まず驚かされたのが、猿と犬と牛がそこらじゅうにいることだった。

野良犬ぐらいなら子供の頃に時々見かけたけれど、カトマンドゥでは、視野のどこかには犬や猿や牛、山羊、豚が必ずいるのだ。そして誰もそれらの動物を気にしてはいない。いわゆる共存というやつだろうが、当時の僕にはその単語が浮かばなかった。あまりにも当たり前にいるので、ネパール人たちはなんとも思っていないようだった。一緒に暮らす家族に対して、わたしたちは共存していると改めて考えないように、牛が横切り、犬が吠え、猿が頭上の樹々を飛び交うのは、おそらく鳩が電線に止まっている程度のことなのだ。

だが、その時の僕にとっては、動物と人間が混然となって、ぬかるんだカトマンドゥの路上で並んでいるのは現実離れした光景だった。

また漂う匂いも混然としていた。これもまた嗅いだことのないような種類のものだった。雨の匂い、土の匂い、路上の市場からは香辛料、果物、野菜、生肉、血など、そして人の汗、生きた獣の匂い。これらがなんともいえない生々しい匂いとなって周囲を隙間なく覆っていた。

見た目も、充満する匂いも、僕には衝撃的だった。

適当な方角へと歩き続けながらも、時々は唖然として立ち止まり周囲をぐるりと眺め渡した。これがゴーダマ・シッダルタの生まれた国なのか。車やオートバイを除けば、この匂いや光景は彼が暮らした2500年前とあまり変わらないのではないか。そんな思いを巡らせながら、僕はタメル広場で点となっていた。

それは素晴らしい時間だった。写真や映像で大方は知ることができるが、匂いだけはその場に立たなくては体験できない。

その日の雨は時々激しく降った。

その度に商店などの軒先で雨宿りを繰り返したのだが、ある時、一頭の白い牛と隣同士で庇の下で居合わせた。そうか、牛も濡れたくはないのだな、などと小さな発見をしたような気持ちでいた。雨はなおも強く降り注いでいる。

僕は雨が上がるのを待つ人間たちがよくやるように、時々天を見上げた。それに何の効力もないのは知っているが、ついつい雨の出どころと、その奥で雨を司っている神々の様子を覗こうとするのだった。

僕がそんな風に過ごしていると、不意に誰かの視線を感じて横を見た。すると、まっすぐな目で牛が僕を見つめているのだった。雨と神とは関係ないよ、といった諭しの色があった。その目の中には邪念などはなく、ただ子供のような純粋な心を僕に向けているのであった。

僕と牛との距離は手を伸ばせば届くほどに近かった。僕は今にも「ええと、どこかでお会いしましたっけ?」と言いたくなるほど、その牛に親しみと既視感を覚えた。その牛の視線の気配は、もはや牛ではなく、人間が中に入っているとしか思えないものだった。

その時の感慨を言葉にするなら、「邂逅」となるだろう。字面といい、この言葉が最もしっくりくる。僕は雨の降る1995年のある6月の日を、カトマンドゥの路上で牛と雨宿りをした。そして、雨が弱まると、僕たちはもともと他人だったことを思い出したかのように、それぞれの近未来の方へと別々に歩き出したのだった。

カトマンドゥでの別の雨宿りでは、僕は別の感動を持つことになった。やはり雨が弱まるのを待っていると、目の前の壁の絵が衝撃的だった。それはある種の仏画で、当時はそういうものへの知識がほぼなかったので、思考を経ずに直接体感することができた。

その絵は男神と女神と見受けられる二人が、駅弁ファックしている姿であった。

男神はこちらに胸を向け、女神はそこに向かい合って抱え上げられていた。女神はこちらに背中を向けているので、結合部分はさすがに見えないのであるが、それでもそれが駅弁フックであることは一目瞭然であった。しかも男女神どちらも激しめの歓喜の表情を浮かべている。うっとりというのを超えて、吠えるような表情から、エクスタシーを同時に迎えていることが伺える。

のちにそれは歓喜仏と呼ばれているのを知るのだが、それは男女のまぐわいでの絶頂は、悟りの体験と同等だという教えを含んでいるのだった。エクスタシー=悟り、だなんて、なんて素晴らしい(好都合なんだ)と僕は感動し、その写真を撮ることも忘れて魅入った。

僕はこれから多くの恋をするだろう。そして多くのファックだってするだろう。その中には駅弁ファックだってあるだろう。そして女体を抱き抱えたままでの絶頂を迎える時には、必ずこの時の雨宿りがフラッシュバックするはずだ。僕は雨が止もうが降り続こうがどうでもよくなって、その絵を見つめ続けた。幸い横には誰もいなかったので、しっかり集中できた。もちろんその時の僕は、数年後に歓喜仏のタトゥを背中に入れることなど微塵にも想像していなかった。

その日はチベット横断時の撮影済みフィルムを現像に出すつもりでいた。ほどなく同時プリント屋が見つかり、そこに数本お願いした。その店内には、そういう店にありがちな近隣の観光地の写真が飾られ、ポストカードが売られている。僕は民族衣装を着た小学生くらいの美少女が壁を埋めるように飾られているのに興味を持った。その女の子は単純に綺麗だったからだ。
店主の説明によれば、その女の子は神が憑いていてクマリ様と呼ばれている。初潮を迎えるまでは神として扱われるが、それ以降は別の女の子が特別な方法で選抜されて新しいクマリ様となり、それが繰り返されていくのだという。
そうか、神か。僕は店内をぐるりと見まわし、ポストカードの束からお気に入りの数枚を選んだ。確かに女の子は一人ではなく何人もいる。だからというのではないが、やはり自分の好みに従って選んだ。その中には現役のクマリ様もいると店主は教えてくれた。そしてそのクマリ様には会えるのだとも。
さらにつっこんだ説明を求めると、実際は会えるというよりも、一瞬遠くから見れるということだった。
クマリの館というのがこのダルバール広場にあって、毎日決められた時間にちょっとだけ窓から顔を出してくれるのだという。つまり大変失礼ながら「会えるアイドル」ならぬ「見える神」ということでもある。僕には少女趣味はなかったが、神とみなされるネパールの美少女を見てみたいと思った。僕はさっそくこれから行って来ると店主に言い残して出て行こうとした。だが、あいにく土曜日は休みなのだという。僕は後日の楽しみとすることにした。未来には、なんらかのニンジンがぶら下がっていることが多い。

通りを歩いていると、ハッパ売りの少年が多いことにも気づいた。てっとりばやく旅行者に買ってもらえる商材なのだろう。

翌日さっそくクマリ様を見に行った。

定刻の10時に数秒姿を見せてくれたクマリ。僕はクマリ様という人間の形をした神を見たのだと感激した。言うまでもなく僕はこういうことを信じるタイプである。少なくとも現地の人々が信仰しているものに対してリスペクトをする。それは僕が特定の宗教に帰依していないからかもしれないが、もしそうだとしても異文化を尊重するように、異宗教に対しても同じ気持ちである。

その日は雲の合間から陽が差すような天候だった。太陽に縁取られた街並みや植物の緑は輝くように美しかった。

チベットの荒野がまだ瞼の裏に残っていたので、生命を湛えた緑が、目と心に沁みた。石と岩に囲まれた無機物の荒野ではなく、今僕は、有機物が溢れる土地にいるのだと満たされた。こうして薄着でサンダルでぶらぶら歩いていられる、空腹や喉の渇きを感じたら、それに応えてくれる店は至る所にある。ここは天国だなと思った。

ネパール銀行で両替をし、ジョッツェン地区を歩いた。そこから西へ数キロ離れた国立博物館は退屈だったが、途中の風景が綺麗だった。館内よりも外が楽しかった。
世界一汚いと聞いていたカトマンドゥの空気も、そこまでひどくなかった。中国の街と比べてもそう変わらなかった。

この後3日間僕は日記を書いていない。何か特別なことがあったわけでなく、おそらくハッパでも吸ってだらだら過ごしていただけだろう。

ある日、僕はヴィショナマティ川周辺を散策した。カトマンドゥの中心地から外れたエリアだが、そういう場所こそ一般の人日の暮らしが見れるだろうと期待した。僕はできるだけ上下左右にある様々なものを見たかったのだ。
吊り橋付近は悪臭に満ちていた。糞尿、死骸、骨、水浴びする子供達。ゴミ。生と死の境界線としての川。

僕は半日ほど、外国人の観光客とは会わないようなエリアをぶらぶらと練り歩き、カトマンドゥの一般的な人々の暮らしぶりの一端を感じることができた。
整然とした日本に比べると、上下水道などのインフラが整備途上ということもあって、いたるところで露出する混沌と生々しさが印象に残るカトマンドゥであった。

ある日、僕は郊外の丘の上に聳えるスワヤンブナートに出かけた。別名モンキーテンプル。一般的にはカトマンドゥ観光のひとつのハイライトとして知られている。ネパールで最古の仏教寺院とされ、カトマンドゥ盆地がまだすっぽり湖の底だった時代から丘の上に建っていたという。
僕はまずは一度見ておきたいと出かけた。

スワヤンブナートが建つ丘の上までの長い階段を登ると、ウィズダムアイと呼ばれるブッダの目が4面に描かれた仏塔があった。

カトマンドゥ中の商店内の壁やガイドブックの表紙などで目にしていた有名な仏塔は、青空の下でその白い肌が実に映えていた。これまで永らく無数の人々に崇敬されて来た建物は、もはや建物ではなく内に何かを宿しているかのようだった。

きりっとしたウィズダムアイに見つめられると、それだけでわざわざやって来た甲斐があったと思えた。線と色、形。それらがうまく配置されて絵になるのだが、ひとたびそれを作った人の元を離れて、然るべき場所で人々の視線を集めると、それは単なる線と色、形からできた絵を超えて、神様を宿したようなエネルギーを持ち始める。そしてそれを求めて人々がさらに集うという循環。

僕はストゥーパを目の前にして、これまでにない何かが僕の中で動きはじめるような予兆を感じ始めた。それはまず違和感としてざわざわと僕を揺すぶった。
だが、宗教的な神秘体験の芽生えのような感じを邪魔してくれたのは、猿たちであった。すでに階段からずっと無数の猿が出没していたのだが、この時の目の前に現れた猿たちは、何かを訴えている。一匹や二匹ではなく、次々と僕を囲むようにやって来る。
観光地の猿といえば、何かをひったくるのが常なので、僕は自分の荷物やポケットの中のものを守るべく、隙のない感じで身構えた。おそらく
ストゥーパに感動していた時の僕は隙だらけだったろうが、猿たちが現れてからはその対局の姿勢となった。
そこにいる人間は僕だけではない。僕を囲み始めた猿たちは、つまんねえなという感じで一匹づつ他の人間へと去っていった。その様子を少し離れた所から、ゆったり座った修行者たちが微笑むような視線で眺めていた。オレンジ色の布をまとった半裸の彼らは顔に彩りを塗り、髪と髭は伸ばしたままの異形者たちだが、まとっている雰囲気はやわらかく、人によっては雄大であった。彼らはサドゥと呼ばれる修行者たちだ。彼らサドゥは観光客に写真を撮らせるかわりにチップを受け取ることで、布施としているようだった。
だが、僕は彼ら修行者を撮らなかった。たいして理由はなかったと思う。カメラマンによってはチップをあげて写真をドキュメント風に撮るのは邪道だとするようだが、僕が撮らなかったのはそういうことではない。なんとなく撮らなかったのだろう。まずは撮っておけ、使う使わないは後からだ、という気持ちがなかったのだろう。こういう時には単純に縁がなかったと思うことにしている。おそらく僕は根っからの写真家とは違うのだと思う。少なくとも真性の報道写真には不向きだ。
スワヤンブナートへは、25年後に再訪することになる。しかも9歳の息子を連れてだ。その時はサドゥ二人と息子とで写真を撮らせてもらった。チップも払った。
丘の上から、カトマンドゥの市街地を遠くに見下ろしながら、かつて28歳の自分がチベットを抜けてやって来た姿を想像した。あの頃はロン毛であったが、今は坊主頭である。ロン毛の自分は、後年自分が息子と同じ坂道を登るなどとは知る由もない。
ストゥーパのウィズダムアイは、そんな二人の僕をじっと眺めていたのだ。何十何百億人のうちの二人を。




 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?