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1995年のバックパッカー28 タイ3 バンコクーパンガン島 あの頃の僕らは街と島を往復してた。

僕はカオサンロードに戻った。

パタヤも悪くはなかったが、やはりバックパッカーにとってリゾート地はフィットできない場所だった。それがたとえ高級リゾート地ではないとしても。

パタヤからのバスは、バンコク市内に入ってから大渋滞に巻き込まれた。降りて歩こうかと何度も思ったが、炎天下でげっそりする自分を想像し、そのたびに考え直した。腹ばいになって前進するかのようにしてバスが到着したカオサンロードは、やはり居心地のいい通りだった。

暇を持て余している旅人たちと、ゆったり構える屋台の売り子たち。お香や排気ガス、熟れたフルーツと食肉の焼ける匂いが混じり、安らぎを覚えた。それは、パタヤのホテルのプールサイドにはないものだった。洒落たトロピカルカクテルよりも、トゥクトゥクのエンジン音とカフェからの音楽による喧騒の中で飲むチャーンビールの方が、僕には似合っていた。

カオサンに帰ってきた記念に、僕は屋台でシルバーの安ブレスレットを買った。1000円ちょっとのものだが、次の目的地へのモチベーションになった。このブレスレットと共にどんな経験ができるのかを想像するだけで楽しくなれる。

長い旅をしていると、荷物になるようなものには物欲が湧かない。そもそも常に節約しているので、何かを買おうという気は元々薄いが、それでも何か新しいお気に入りを見つけるという買い物の楽しさは残っていた。
荷物にならないお気に入りとなると、アクセサリーが一番適していた。


僕は元々民族衣装や雑貨が好きだったので、その国その土地ならではのそういった類にはいつも惹かれた。カオサンロードにはアクセサリーの卸店が結構あって、バックパッカーは中には、そこで仕入れた材料をもとにオリジナルアクセサリーを作り、訪れた先で売って小遣いや旅の資金の足しにしている人もいた。

タイは銀のアクセサリーが割と有名で、物価の安いカオサンロードでは、そういう店をぶらりと巡る楽しみもあった。興味のない人から見たら、がらくたに過ぎないかもしれない。だが店主とのやりとりや雰囲気を含めて、そこにしかない楽しさが僕は好きだった。

僕が買ったのは、タイ北部の少数民族カレンの銀細工だった。繊細で素朴で、奥行きがあった。そんな居心地のいいカオサンロードだったが、パタヤから戻って翌日には、新たな場所へと僕は発つことになった。

どこでどう仕入れた情報かは知らないが、向かう先はタイ南部のパンガン島だった。
当時は低予算で旅するバックパッカーたちの溜まり場的な島として知られ、特に満月の夜に開催されるフルムーンパーティは、多くのバックパッカーがそれを目当てにやってくるほどの盛り上がりを見せていた。

その頃の僕は、チベットの荒野を抜けた後、カトマンドゥ、バンコクと大きな街に滞在したあとで、再び自然豊かな場所に惹かれていたのかもしれない。もしくは、同じような境遇の仲間達と南の島で踊り明かしたいというクラブ好きの血が騒いだのかもしれない。
いずれにしても、カオサンにはわずか一泊しただけで、翌日の夜には南行きのバスに乗った。出発地は便利さを選んで、カオサン近くから出る便を選んだ。だが、言われた通りに17時半に集合したが、結局バスが出たのは21時だった。そしてこういうことは当時は特に驚くべきことではなかった。よくあることではあったのだ。

そのおかげで僕は我慢強くなった、ということもなく、ただ、諦めることが上手になった。クレーマーになって憤怒に熱くなるよりは、「仕方ないな」の一言でため息一つで済ませた方がストレスが少ない。

「仕方がない」これは今でも僕がよく使う言葉だ。世の中のトラブルの大半は、そういうものだと思う。

そうそう、バスの出発前に、タトゥ屋のヌイに挨拶をしに行った。次に会う時は一緒にサメ島(コ・サメ)に行こうと約束を交わした。その島はバンコクから手軽に行けるビーチがあって、地元の若い人には人気があった。僕はコ・サメの夜をバイクに乗って走る僕たちを想像した。それは紛れも無い刹那であった。それもいいかもな、そこでのんびりヌイたちと過ごすのも。僕はヌイとの無為な時間を楽しみにして、タトゥ屋を去った。

夜行バスは、南へ下っていった。熱帯の夜をさらに南へと走っているという事実が僕を興奮させたのか、なかなか寝付けなかった。チベットをヒッチハイクもできずに彷徨っていた経験からすれば、座っていれば確実に目的地へと運んでもらえることは、快適以外のなにものでもなかった。ある意味、快適すぎて寝れなかったのかもしれない。

何度かうとうとしては目覚めてを繰り返しているうちに朝が来た。まだ目覚めきっていない早朝のタイ南部マレーシア半島は、少し青みがかって優しい空気に包まれていた。太陽が東の水平線の彼方から登ってしまったら、その優しさは瞬時に失われてしまうだろう。刺すような強い光は、日没までの灼熱の時間が何かの罰のように思わせるのだ。

10時頃にスーラータニーに到着。

ドンサック港からの船のスケジュールの関係で、15時までは港近くで時間を潰して過ごした。

船はサムイ島を経由してパンガン島には18時半頃に到着した。バンコクからほぼ丸一日を要したことになる。船上では欧米人(国籍まではわからなかった)の夫とタオ島でダイビングショップを経営している日本人女性と少し話しただけで、あとはひどい揺れとガソリンの匂いによる酔いに参っていた。その酔いの原因のほとんどはガソリンの匂いだった。ぼくはなぜかその匂いに弱く、平地で嗅いでも気分が悪くなるほどだった。


ボートが腹が波を叩く時の衝撃は、胃が上下するのが分かるほどで、乗り合わせた多くの人が青ざめていたほど酷かった。それでも途中下船はできない海の上とあっては、耐えるか酔いにやられて朦朧とするかのどちらかだった。

快楽の島パンガンへと辿り着く者たちは、必ず受けなければいけない前払いの罰のようなものかと到着後の僕は思うのだが、行きのボートの上では途中の寄港地であるサムイ島への下船も真剣に考えるほどだった。

それでもなんとかパンガン島までたどり着いたのは、もはやまともな判断力も失せていたからだろう。

タオ島でダイビングショップを営む2人とは港で別れ、僕は客引きの中から適当に一人を選び、彼の運転するバイクのリアシートに跨った。


着いてみるとそのバンガローは悪くなさそうだった。一泊300円ほどで、扇風機のみだったが、ここではエアコン付きに泊まるバックパッカーは稀だったし、そもそも当時はエアコン付きのバンガローは少なかったはずだ。

その宿はビーチ・ブルーというやる気のない名前だったが、やる気のないのは名前だけではなく、全体的にその宿の存在自体が凪の海面にただよう海藻のようだった。だが、それゆえに居心地がよい宿だった。

その到着日から、僕は日記すら書かなくなっている。

なので、ここに書けるのは、少しだけのメモと、曖昧な記憶による。事実として言えるのは、パンガンには8日間も滞在していたということ。この旅が始まってから一箇所にそれほど長く滞在したことはなかった。ある意味、この事実がパンガン島が僕にとってどういう存在だったかを語っているだろう。

いくつかのメモには僕が読んだ本のタイトルも記されている。



7月17日(月)
ビーチでカミュ「異邦人」を読む。

7月18日(火)
ヘミングウェイの短編10作品読む。

7月19日(水)
ヘミングウェイの短編6作品読む。

暇だったからか、ビーチで本を読んでいたらしいが、暑くはなかったのかとまず思う。早朝か、夕方を選んでいたのだろうか。

他にはこんなメモが続くので転載してみる。

7月20日(木)~23(日)

マッキーがパンガンフィーバー。
バックヤードで踊り明かす。
カクタス、サントス、ビニール→ディスコの名前。
ビーチ・ブルー・バンガローの隣でうるさい。20時のイーグルスタイム

・イモリの鳴声=カッコーに似ている。
・セミの死・犬の多さ・毛の抜ける病気
・ビーチは遠浅
・ドラック取締り
・ハードリンイーストの賑わいとウエストの寂れ
・12才のバーミ屋の少女。


リポビタン 15B
水1リットル×6 30B
朝のビーチの静けさ
午後のビーチの静けさ←電気がストップするため 音楽がかからない。
ヘミングウェイの簡潔さ
三島の形容
カミュの内面
宮沢の伸びやかさ

マッキーというのは現地で会った日本人の男の子で、23歳くらいだったような気がする。パートナーのアヤと一緒で、いつも2人で仲良くいた。

敢えてガールフレンドと言わなかったのは、実際関係がよくわからなかったし、そこには興味もなかった。パートナーというのは少しぼやかしてくれる言葉だ。

これらのメモを目にするだけで、僕にはあの頃の情景が蘇ってくるのだが、初見の人にはこのメモだけではあまりよくわからないだろう。


パンガン島での8日間で僕がやっていたことを整理するとこんな感じになる。

・朝は結構目覚めが早かった。どこかのぶっとんだ白人が日の出前の水平線に向かってビーチから叫んでいた。「アイ・アム・ア・ビューティフル・マン!」これは本当の話である。
・早朝のチルタイムの後で、回転したビーチのカフェでフルーツサラダにヨーグルトをかけて食べるのがお気に入りだった。
・それからその辺を散歩したり、読書に没頭する。
・ランチ。ヌードルものが多かったような。
・食後はバンガローで昼寝したり、ゴロゴロ過ごす
・夕方涼しくなってから散歩したり読書
・夜ご飯。その辺の安飯で。
・ディスコで踊る(毎晩)
・眠くなったら帰る(節約してるので飲みすぎない。健康的)

これを1週間繰り返したら、さすがに帰ろうかな、となったのではないか。帰る先は、もちろんバンコクである。

そうそう、書き忘れそうになったが、パンガン島名物のフルムーンパーティのことだが、島は僕が到着する数日前にすでに満月を迎えてしまっていて、僕は遅刻もいいとこだった。大遅刻というわけでもなく、月はまだぽってりしていたが、すでにパーティピープルたちは去っていた。
僕は時々遅れてしまうのだ。流行にも、デートにも。おそらく自分の人生にすら。









 

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