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恥ずかしいことを大声でいうとき

無鉄砲な子どものような心臓と、理性を備えた大人のような頭脳の闘いが繰り広げられる。子どもが手を出そうとすれば、大人はその手をぱしっとつかみ、阻止しようとする。子どもは無邪気な心で意識の向かうままにふらっと立ち上がるが、大人の監視の前にやっぱり身動きが取れない。

そんなことを何百回と、繰り返したことだろうか。あぁ大人っていうのは、周到で、用心ぶかくて、臆病なんだな。子どもはどうにもそう思うしか、心のやり場はない。

大人は子どもを心配しているのだ。これ以上傷を負ったら、一体どうするんだ、と。生きていかなくちゃならないんだぞ、と。その傷みと向き合っていけるのか、お前は!と。

子どもは思う。そんなの、やってみなくちゃわからない。なんでも頭ごなしに否定するもんじゃない。経験がなんだ、そんなの全部必然なんて、言えるのか?やらなければ0、でもやれば1になるかもしれない。限りなく可能性は低くとも、やらずに後悔するよりも、とにかくやってみることじゃないか。常識がとか、今時はとか、そんなことより、大事なのは、自分の本心。自分が心から望むことを、なんであきらめる。あきらめられないくせに。

子どもでいたい、でも大人が邪魔する。

感性は理性以上に大事か?
自分がひとつのことにこれほどこだわるのは、子どものように動き出したくなるのは、なぜか。動き出したくなるたびに、臆病で勇気の足りない大人が横入りしてきて、止めるのはなぜか。

その問いに、ついには答えを与えることができず、無力になりながら、夕方のような、夜のような、まだらな空を見上げていた。
星を探すと、あまり見つからない。北極星があって、月があって、ぽつんぽつんと星があるけど、焼津や、ドイツで見た星の数とは違うな、ここは東京だからなのかなと思った。
たんぽぽ、つくし、野鳥、よもぎ、虫の音、夕焼け、大きな川。彼らは、大きく包む。
人が沈黙する春に、すくすく育ち、生きる彼らは、時を気にせず。かといって、人に同情もせず。

東京では唯一、空が開けた場所であり、そこにしか生命は宿ることができないかのように見えた。高層な建物に囲まれた狭さは、生命を枯れされるのかな?

ここらへんを歩いていると、何を考えるでもなく、なぜだか75年前の光景が見えてくる感じ。75年前も同じく、彼らは生息していて、人の傲慢さに呆れるでもなく、しかし人の傲慢さの犠牲に、知らず知らずなって、それでもまた新しい命を宿していた。

きっと、小さい子どもたちがこの土手で、やはり花を摘んだり、走り回ったり、したんだろうけど、随分貧しい格好だったんだろうなとか、家屋も、あらかた破壊されたのかなとか、どんな感情で、明日に期待とか、できる状況だったのかなとか、ぼんやり想像した。

もうさ、どうでも良くない?今、私の書いたことたちなんて。それと同じくさ、これだけ好き勝手書いてるみたいにさ、身を任せれてみれば?って。考える前にさ、子どもに戻ってみれば?って。私だけが子どもだと、かなり状況は不利な気がするけど。
確かにみんな子どもだよね。不必要なところで子ども、なんでそこ?ってとこでやけに分別がつく。
私がいう子どもっていうのは、書いた通りで、感性に従え、時には理性を超えろってこと。既成の価値観に縛られるなってこと。
本気じゃないくせに、本気のフリすんな。本気で考えてないんなら、本気で考えてないって、素直に言えばいいじゃん。本気っていうのは、「恋愛に本気」とかの本気じゃなくて、真面目に人の話聞いてるようで、聞いてない意味での本気です。

多分、これを読み返したら「恥ずかしい」って時期が、もうすぐ来るはず。来て欲しい。

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