見出し画像

プロ選手を目指す君へ

昨年個人事業主として開業してからは、たまに「社長」とか「起業家」と呼ばれるようになった(そのうち95%くらいが身内の冗談だけど笑)。でも彼らは大したことのないこんな自分をいつもすごいと言ってくれたりする。


個人的にはそんな肩書き(社長とか)は考えたことがなかったのだが、側から見るとそういうことになるのかなと新鮮さとちょっとした驚きが混ざり合った不思議な気持ちになった。


前からそうだった。

サッカーをするために東京の実家から宮城の寮に入るとなった時、周りは
「早いうちからすごいね」

アメリカの大学にサッカーで留学した時も周りは
「こわくなかったの?すごいよ」

アメリカからフランスに行った時も。

男子チームでフットサルをやることになった時も。


側から見たらすごいのか、、、

これをやるって珍しいことなのか、、、

「すごい」と褒められるのはもちろん嬉しい。

それを誇りに思う自分もいた。


でもそうしたすごいを聞くたびに心にモヤモヤが溜まっていく自分もいた。

なんでって、自分は大したことだと思ったことがなかったから。


嫌味とか自慢ではなくて、

これまでの活動は全て自分が楽しい、やりたいと思ってやって来たことだった。だからそれに対して「すごい」という言葉がなんだかアンバランスで、自分は他の人の目には大きく写りすぎてるんじゃないかって思ってた。

それにこれまでの自分がいるのは間違いなく周りの人に導かれたからであって、自分が1人で切り開いていったものでもなんでもない。

だけどそんな気持ちとは裏腹に自分の経歴にはアメリカとかフランスの文字が出てくるようになって、それを見る人たちはすごい経歴という目で自分を見るようになった。

そのうち「楽しい・好き」だから夢中でやってたはずのフットボールなのに段々と周りの「すごい」っていうイメージと自分の実力のギャップを埋めるように努力するようになった。

「楽しい」というより「これだけやって来たんだから/こんな経歴持ってるんだから、上手くなきゃ/活躍しなきゃ」そんな想いでやっていた自分が最後の方はいた。


まぁそんなのは自分の受け取り方次第っていうのもあるから、周りからしたら

全然そんなこと思ってなかったよ。ってぐらいのことかもしれない。

「すごい」の意味を自分が間違って解釈してたかもしれないしね。


なんだか湿っぽくなってしまった気がするが、今書いている状態は至って冷静だし全然気にしてない。

ただ、自分の認識と世間の認識は違うなってこと。

そんでもってそのギャップに囚われ過ぎたら自分をまた見失うよっていうちょっとした戒め。


今の自分の実力は過去の自分の積み重ね。

準備をしてこなかった自分のせいで苦しんでる自分がいるならそれは自分の責任。今自分が持ってる能力で勝負して、それで足りないものは進みながらつけてけば良い。


開業届出すのは紙切れ一枚だった。だけど実際そのあとって何十枚、何百枚、何千枚、何万枚もの紙に書き殴って、ようやくこれだ、っていう道が見えてきた。

そして学んだ仕事としての考え方。

絶対に忘れちゃいけないのが、

お金をお客さんからいただくということは、お金の対価として自分が全力でお客さんのために働くということだ。お客さんにはお金以上の価値を提供すること。それが出来て初めて仕事をしたと言える。それが出来ないようじゃお金をもらう資格なんてない。

それをプロサッカー選手を目指していたあの頃の自分に伝えてあげたい。

プロとはお金をもらう代わりに雇われる身としての責任を負うこと。その上で結果を出すこと。

それが出来ない選手に価値なんてないのだ。

逆にそれが出来るのならプロになれる。


覚悟とコミットメント。

どの世界にいてもやることは一緒だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?