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羊たちの沈黙

 別に某有名サイコサスペンスとは何の関係もないです。はじめにお断りしておくけど。
 羊犠牲祭とも呼ばれるアイード・エル・クビールはモロッコでは新年に当たる大きなお祭りである。文字通り、この日、各家庭では生きた羊を殺すのだ。数日前から職場の警備員達からは、「羊買ったか?」と毎日のように聞かれ、その度に答えに窮していた。また、スーパーの駐車場にはテントが設けられ、仮設の厩舎のような中で生きた羊が売られていた。そんなわけで、アイード当日、家を出た僕はいつもと変わらぬ街の様子に安心した。どこかで羊の叫び声が聞こえたような気はしたのだが・・・。
 この日は同僚の家に招待されていた。タクシーでメディナ(旧市街)の入り口まで行った。門をくぐってメディナの中に足を踏み入れた途端、僕は閉口した。「なんだこれは!暴動でもあったのか?」と思うような有様だったのだ。狭い通りのそこら中で、どこからか集めて来た廃材を石畳の上で燃やしてたき火をしている。その上に壊れたマットレスのスプリングを焼き網の代わりに乗せて肉を焼いている。まだ血の滴る短刀を持った男が血だらけの服のまま歩いている。路地の片隅で、黒こげになった羊の頭蓋骨を斧で叩き割っている。道に血の跡を付けて、剥がれたばかりの羊の生皮を引きずって少年が駆けていく。そんな狂気のような状態なのに、人々の表情が皆楽しそうなのが余計に不気味だった。
 なんだか混乱したままの頭を抱えて同僚の家に着くと、そこはまだ平静が保たれていた。しかし、中庭ではすでに3頭の気の毒な羊達が自分たちの運命を知ってか知らずか最後の晩餐とばかりに干し草を食べていた。やがて、遅れていた屠殺人がやって来た。1頭目の羊の頭をメッカの方に向けて押さえつける。次の瞬間、と殺人のナイフが喉がぱっくりと割り、ドロリとした血がどくどくと溢れていた。羊には声を上げる間もなかった。大型ほ乳類を殺すのを間近で見たことのない僕にとっては大量の血や喉を切られてもなおびくびくと痙攣する羊の姿は直視に絶えなかった。が、好奇心は僕の目を羊から逸らさせることはなかった。やがて血が抜けてしまうと羊は動かなくなった。不思議なことなのだが、僕の中でもこの瞬間、羊は命あるものから物体になったような気がした。それはもはや肉のかたまりであり、吹き抜けの梁から吊り下げられ皮を剥がれる時も、腹を裂かれて臓器が取り出される時も、あの喉を切った時の動揺がよみがえることはなかった。魚をさばくのと何も変わらないじゃないか、と。
 アイード初日は肉は食さず、痛みの早い内蔵だけを食べるのだが、炭火で焼かれた肝を食べながら、それがさっきまで生きていたものであることを実感した。人間は植物なり動物なり何かしら生命あるものから命をもらって生きるしかない。生きている羊が自分の口に入るプロセスを体験してそのことを強く感じずにはいられなかった。その後、羊は内蔵、肉、脳みそを食べられ、毛皮は敷物や革製品になったりと全く無駄なく使い切られる。厳しい自然環境の中で生きるためには、わずかの無駄も許されないという遊牧民の知恵がモロッコでは未だ受け継がれている。

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