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The 3rd 「承認欲求」

あいさつ

私も、書かねば書かねばと思い2ヶ月が経ち、気がつけばほぼ3ヶ月ぶりの投稿になってしまいました...。
このペースだと、1年に4回しか更新できない(笑)
けど、自分たちのために気楽にやっていきましょう。(笑)

私としては、この3ヶ月の間に2回目の個展を開催し、壮絶な燃え尽き症候群に陥っていました。
今回の個展は、大学4年の就活の時期に海外で働きたいと思い、でもコロナで叶わなくなった後に興味が出たアフリカへ行って帰ってきた、この2年間の総まとめの気持ちで開催しました。

ですが、終わってみると、海外で働きたいと思ったのは、外大に行っていたからだろうし、外大に行ったのは高校を卒業するときに「外国に行けば、私の知らない世界がきっとある!」と信じた18歳の私がいたからで。

それから、アジアもヨーロッパも行き、イスラムの国もカトリックの国も、それ以外の土地や宗教観も経験して「どれだけ遠くへ行っても、変わらないものがある。それは場所でも宗教でもなく自分で育てるものみたいだよ。」という趣旨の今回の個展は、この6年間の総まとめになったな〜。と、なんだか人生の第1章が終わったような気がして、じゃぁ次の6年間。私が30歳になるまでのテーマはなんだろうか。
など、終わりのない思考に迷い込んでおりました(笑)

承認欲求の話をしましょう(笑)
今回久しぶりに更新するにあたり、この往復ブログを最初から読み返してみたのですが、帰国直後の自分が自分でもわかるくらいにツンケンしていて恥ずかしくなりました。(笑)

と、同時に、ここ最近承認欲求らしい感情にならななという発見もありました。

個展を開催して、自分なりの答えを納得できる形で表現できたからかもしれないし、やりたいことができる心地よい職場と出会い、収まるところに収まった感があるからかもしれません。(将来のことを考えると悩みは尽きませんが)

えいこさんの言うとおり、今まで普通だと思ってきた文化を一度横に置いて、他の文化にどっぷり浸かったからこそ得た価値観と言うのか。
全く別の価値観にどっぷり浸かることで、”場所が変わればどっちの価値観もあてにならないし、自分の好きなようにやらせてもらうわ”という開き直りなのか(笑)

承認欲求って他人から認められたい。という感情だから、他人からの評価を諦める、もしくはあてにしないで自分で自分を評価できるようになるとあまり生じない感情なのかもしれません


でも、まぁこんな感情なのは今でけで、今まで自分の承認欲求には散々振り回されてきたし、これからもきっと振り回されるだろうので、えいこさんに習って、子供の頃の話から。
(前回のテーマが、今回のテーマの前置きだったとは...。やられました...。)

子供の頃 / 親からの承認


別に隠してるわけではないんですが、この話をすると、同情を買ってしまって面倒なのであまり話さないのですが、私は小学校4年から2年間ほど(おそらく)パーソナリティ障害という心の病気でカウンセリングに通っていた時期がありました。
(おそらくというのは、その当時に病名がつけられたわけではなく、大学生になって友達と話してるうちに自分で、あっこれだったんだろうな。と気がついたからです。)

パーソナリティ障害は、女性や子供が多くなる病気で割と短期間で治るそうです。私の場合は、自分でついた嘘が、嘘なのか本当なのか自分でわからなくなってしまうパターンでした。
今となっては、「ちょっと風邪ひいてたんだよね。」くらいの感覚ですが、小学校のこの経験が中高大と、「自分は人とは違う」と潜在的に思うことで自分と向き合う時間を延ばしてくれたという点で(良かったとまでは言えないけど)有利に働いてくれたと思います。

(これもあまり起きな声で言うことじゃないんだけど、えいこさんへ向けてだから言ってしまうけど。)うちの兄はおそらくギリ通常範囲のADHDだと思っています。この”ギリ通常範囲”というのが肝で、ギリ通常なので通常の人よりも劣っているのにもかかわらず通常の人と同じ土俵で戦わなければならないんですね。
で、私が小4ということは兄は中1。家の中では、テストの点は悪いわ忘れ物は多いわ、学校からの指摘も入り両親の注目はすっかり兄の方へ注がれていました。一方、学校へ行っても、年頃の女子の残酷なカースト制が繰り広げられていた時期です。

以上を踏まえると現段階での私の考察では、
本当かどうかわからなくなるほどつきまくった嘘は「私を見て!!!」という子供ながらの心の叫びだったんたろうと思います。

これを承認欲求と呼ぶのかは少し違うような気もしますが、これが私の他人からの評価、又は注目度(?)を気にし始めた一番古い記憶です。

その後、良い担任に恵まれて徐々に回復し、中学になると学業でも部活動でも、先生からの目線も男子からの目線も全てにおいて承認欲求を何不自由なく満たす花の中学時代を迎えました(笑)

ドブに捨てるような恋愛。異性からの承認。


問題なのはここから(笑)
高校になると、学校では部活一筋・学業優秀な真面目バレー部なのに学校の外では、中学時代に上がっていた株で、好きでもない男とよく遊んでいました。
本書で鈴木涼美さんも「sexしたいは等しくsexしたいと思われたいだった」と記していましたが、この頃の私も、男の子と遊ぶのが楽しいというよりも性的に求められることで学校では満たされなくなった恋愛面での承認欲求を満たしていたのだと思います。
我ながら心配になる...。(笑)

大学に入り初めて付き合った方が、承認欲求を満たすだけじゃない能動的にこの人のことを知りたいと思う恋愛を教えてくれました。
(ちなみに宇多田ヒカルは「寂しいんじゃない、ただ知りたいだけ」と歌っています。いい歌詞。)
その後も求められることで承認欲求を満たすクセは多少尾を引きましたが、自分の中で「今は寂しいから適当な人でいい。orこれは能動的な感情がある。」と判断ができるようになったのは、早めに能動的な感情を教えてもらったからだと思います。(ありがとう元カレ!)
今は、能動的な感情がないと意味がないと思えるようになりました。他人からの評価に依存せず、自分の倫理に合うかどうかで判断できるようになったというこのなのかな?
成長した?と言いたい(笑)


でも、どうして大抵の人(というと大げさかな。)が性的に求められることで承認欲求を満たしてしまう時期があるんでしょう。なんとなく、きちんとした大人になる前の最終段階のような感じがする。(きちんとした大人という概念が曖昧だけれど。)


自分で自分を評価する

冒頭にも書きましたが
今は職場にも恵まれ、しばらく一緒にいてみたいと思えるパートナーもいるので、「この人に認められたい!世間からの評価が欲しい!」(?)などの過度な承認欲求を求めるエネルギーは今あまりないのかもしれません。
いいことなのか、悪いことなのか。

親や異性へ向けての承認欲求に振り回される時期はあったけれど、自分が所属する組織の大人や先輩から「よく頑張ってるね」と思われる振る舞いを考察する能力は昔から長けていたようで、学校でも部活でも役職的にはいつも良いポジションをもらえていたように思います。そこの面での承認欲求は、むしろ努力として捉えられるのかな。

あと、余談ですが、部活動というものが発達しているのは日本だけだそうですが、部活動を頑張るメリットは、
ある組織に所属してからその組織を運営する側へ回る体験が2.3年という短いスパンで経験できるということだと最近思いました。会社に入ると、上司が考えることや上司の気持ちを自分のこととして経験するまでのスパンが最低でも5年や下手すりゃ10年20年くらいかかりそうな気がします。
今、会社の上司の苦労を「あれもこれもしなきゃいけないのに私の教育までって、この人も大変だな〜(ハナホジ)」くらいに思えるのは、自分の体験として役職が変われば悩みも変わるということを知っているからだろうなと思って、部活を頑張ってよかったなと思いました。(なんの話やねん。)

最後に、えいこさんの自分の快・不快に敏感であることについて。
私のいう原始的な生き方(プリミティブなもの)にも、自分で自分を評価するためにもとても大切だと、私も思います。
自分の感覚の快・不快に素直でいることも大切だし、自分の倫理観・価値観に何かが合っているかまたは背いていないかを考えるときにもすごく大切な気がする。すごく小さいことだけど、最近は職場でちょっと気がつかれているなと思ったら休憩時間は会社の前の草むらで日向ぼっこをすることにしています。自分がそうすると気持ちいいと感じることを知っているから。
自分で自分の機嫌をとるってこういうこと?笑


以上、私の子供時代から今までの承認欲求との付き合い方でした!
久しぶりすぎて、全く一貫性のない、えいこさんとの10年の人生経験値の違いが浮き彫りになってしまう文章になってしまった気がして少し心配です。(笑)

自分の考えなかったことや今の頭の中を書き示すタイミングがあって嬉しいです。これからも気長にゆるゆる付き合ってもらえると嬉しいです。
では、また次回。

ナツをもっとアカルくするエネルギーになります!