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私たちは無価値じゃないー文系院生の叫びー

論文の執筆を控える文系の大学院生がなぜ今noteを始めるのか?

大学院生になって、アウトプットの習慣が増えた。思考もかなり深まってきたように思う。それでも、それを人に伝えるということを大学院生の狭いコミュニティの中でしかしてこなかったことを最近強く感じている。

修士論文の執筆まであと半年しかない中で、私の決断したことは、人に自分の考えていることを公開することだった。大学院生の考えていることは、きっと多くの人々にとっても何ら特別なことではないのかもしれない。しかし、私が、私たちが気づいたことが、何か誰かにとっては知らなかった気づきなのかもしれない。そう思うと、わくわくしている。

その中でnoteはいい手段だと考えた。

文系院生は不利だというけれど。

そもそも、文系大学院生に対する世間の目は冷たい。就職活動をする仲間たちも、社会人で早期退職して大学院に入った人生の先輩方も、みな口をそろえて「文系で大学院に進学することは、世間的に見ても推奨されることではないし、むしろマイナスだ。」という。しかし、私はあえて言いたい。

文系大学院生には、大学院に進学したからこその価値が確実に存在する

私自身も、多くの人に大学院に進学するといった場合「それでは研究者になるのか?」と問われた。もちろん、私からすればその選択肢を考えていなかったと回答すれば嘘になる。さらには、人々の印象の中で、「就職活動に失敗したから仕方なく大学院へ進学してもう一度チャンスを探ったに違いない」という印象すらあるらしい。

それならば、私は皆に問いたい。大学時代に学んだといえることがどれだけあるのだろうか。と。就職活動で、大学でこれだけのことをしてきました!と勝ち組の様に話す人を何人も見かけた。今、思っていることをきちんと表現することができるのも、一種の才能だ。しかし、彼らの中にどれだけの知識があって、それを人に共有するだけのことがあるのだろうか。もちろん大学生の専門分野は人それぞれだ。しかし、そのどれも何らかの価値があるものではないか。

しかし、悲しいことに、大学が就職予備校と化してしまっている。

そして、高校も大学への受験の予備校なのだ。

高校でも、私たちは高校生らしいことをさせてもらえず、まるで3年間が予備校であるかのような生活を強いられる学校すらある。ヨーロッパ出身の友人と話して驚くと、彼らの生活との違いに驚かされたりもする。あるいは、アニメや漫画に描かれるようなバラ色の高校生活を送れる人はどの程度いるのだろうか。結局、大学受験のしがらみとらわれた勉強方法しかできていないように思うのである。さらに、悲しいことに、受験のために学んできた知識、特に英語は6年学んでも「英語を話すことのできない日本人」のままになってしまうのだ。

私たちは、大学に進学するために高校で学び、そして大学で学ばなかったとしても就職先を勝ち取れば、勝ち組となれてしまうのだ。

私たちの学生生活の価値はどこにあるのだろうか。

大学院生の学ぶ価値があるのだと明確に宣言することにはもちろん様々な反論が想定できるだろう。しかし私たちは2年間、自分自身が選び取ったテーマについて、追いかけ、一研究者としてそれぞれの意見を探し、悩み、そして一つの学説を展開しようとする。そして、書物を読み、アウトプットを積極的に行うのである。これらのことを評価をしてもらえる社会は、この学び舎を離れるとなかなか出会えない。

私たちの就職活動は、文系の大学院生であるというだけで、不利になってしまう。とても皮肉なことだ。

これからAI技術が発達したら、就活のESの振り分け条件で一度目から蹴落とされる事だってあり得るのだ。人物重視の就職活動。糞食らえだ。
私たちのことを、一つだって見ていないではないか。
本にかじりつき、人とのコミュニケーションを取らない学生だっているだろう。だが、それが全てではないし、大学院に行ったからこそ開花したことだってあるかもしれないのにも関わらず、大学院一年生ですぐ「インターンに行け、そうでなければ手遅れになる」という就活指導をされるこの世の中は間違っているとしか思えない。私たちの研究人生だって二年間しかない。少しでも遅れれば、手遅れになるではないか。

だからこそ、文系院生の市場価値を知らしめたい。

私が、有能だ。ということではない。私の周りの、修士課程の学生も、博士課程の先輩も、ポスドクの方々も、皆それぞれが素晴らしい知見を持っていて、アウトプットの力もすごい。いつも自分の力の未熟さを思い知らされてばかりだ。

そんな人々と、どのような議論をして、どのような発見をしたのか。

自分の気づいたことだけでなく、そういったことを少しずつでもいいので共有していければと思っている。私が書きたかったのは、現状の糾弾のみだからだ。
どの大学だから苦しい、先生が悪い、ということではない。社会が悪いのだ。

大学院生だから給料が高い、だからこそ、企業にとってはリスクのある採用だ。という人だっている。だが、文系の大学院生だから給与が高い、という企業ははっきりいって少ない。

政治について研究していた、といえば、政治家になりたかったのか?と真顔で聞かれるような世の中だ。法学部出身ならみんな弁護士志望と勘違いしている人々だっているような社会だ。
だが、たしかに文系の研究で職業に直接密着することははっきりいって少ないだろうし、これまでに身についてきたもので役に立つのは、WordやExcel、PowerPointのスキルの高さや、研究のツールとして用いてきたものばかりだろう。しかし、この二年間で苦しんだ日々を無駄だ、時間の浪費だ、社会に出るのがリスキーになる、と言われるような社会が我慢ならないのだ。
文章の書き方、論理性、仮説の立て方、分析をする力、人と議論をする力、そして要旨をすぐ掴む力…どれもこの2年で身につけられたと思えるものだ。

本来は学部生でも身につけられたかもしれない力かもしれないが、これらに気づける学生は恐ろしいほどに減少している。

日本はこれから少子高齢化がもっと進む。キャリアアップ、女性の権利向上、聞こえのいい言葉はよく耳にするが、「がんばった人がきちんと認めてもらえる社会」になることこそ、最も必要なことではないのだろうか。


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