息子が野球を職業にするまでの話①
息子、野球を職業にして2年目を迎えます。
親にとっては、良くも悪くもまさかすぎる息子の人生。
いわゆる王道ではなく、注目されたこともない極々普通の道を歩んできた息子が野球を職業に選んだお話です。
私が野球が好きだったこともあり、息子が小さい時から公園でボール遊びをしてたのが野球をするキッカケ。
保育園入園に入ってから、土日は公園でカラーバットと柔らかいボールで素振りとバッティング。
年中になってからは柔らかグラブとボールでキャッチボール。
ただ、この時は、将来ウルトラマンになる予定でした(と本人が言ってた)
卒園して小学校に入学しても変わらずの日々。スポーツが好きで、学童保育でも毎日野球ごっこ、テレビではプロ野球観戦、、野球漬け?の日々が始まったのもこの頃から。
小学校低学年の時には、土日に少年野球の練習を横目に、小学校で軟球を使ってキャッチボール、バッティング、ノック。
それを見てか見かねてか、ある日、現監督から「そんな隅っこでやらんで、どうぞ中で練習してください」と声をかけられる、、、、覚えていないらしいけど。(当たり前か。)
別の日には、近くの団地の公園で嫁と息子が練習していると、低学年のKコーチが来てくれて、
「野球好きなんやろ?上手だし、早く入ったほうがいいよ。私が紹介してあげるから」
と声をかけられ、指導までしていただいた。
そんなこんなで小学校3年の秋のある日、息子が「野球チームに入りたい」と初めて自分で意思表示。
「本気でやらないと、お父さん、お母さんも本気で野球はできないし、何よりもチームに迷惑がかかる。本当にやりたいなら毎日素振りしなさい。そうしたら、体験入部に行っていいよ。」
って言ったら、そこから毎日1ヶ月、左右それぞれ50回ずつ素振りをし始める。上手く行かず泣きながらもあきらめずずっと続け、意志の強さを見せてくれた。
野球教室的なサークルに行かせようとも思ったけど、遊び半分で納得なんかしないため、地域の某少年野球部に入部させる事に。
体験入部は雪やら試合やらで年を越してしまい、1月初旬に初めてグラウンドに行く。
幼馴染の子供たちから「やっと来た」って声をかけられ、楽しそうに混ざって練習。
練習が終わって「僕、野球をここでやりたい」と意思表示。
入部意思を伝えて1月下旬に某少年野球部に入部。
51番から始まる低学年の背番号の中で、入った順番もあり、最初の背番号は61番。中途半端な番号に見えたけど、当時の千葉ロッテ角中選手と同じ番号。
このチームの低学年野球のモットーは、楽しく全力。送りバントはやらない。勝つことよりも全力でバットを振り、全力で走ってボールに食らいつく。見逃し三振や守備をサボったりするれば即交代。でもそれが息子には良かった。
入部したての頃は補欠も、4月にはレギュラーポジションを守る。
サード、セカンド、ショートなどを中心に経験。
でもチームは守乱で春の大会はエントリーしてもらえず。練習試合も中々成績を残せず、リードしてても最終回逆転負けが続く。
そんな中でも月に6回程度の練習しかない中で、子供たちは自主練して成長。
秋の市長杯ではベスト8で強豪に破れ、後一歩の所で県大会出場を逃す。
その時のTコーチの言葉
「よくがんばった。練習が少ない中で、日々教えている事を今日は十分に出せた。今日の試合は力負け。これだけの練習しかできない状況の中で、今日の試合がうちの精一杯だったと思う。よくやったよ。これからも頑張れ。」
と誉めてくれた。中々こんな事をいうコーチではないだけに、子供以上に私は感動した。
そして低学年最後のカップ戦を迎える。
1試合目の相手は強豪K少年野球部。最終回にツーアウト満塁で息子に打席が回る。結果はサードゴロ。ホームランが出ても逆転できなかったけど、ヒットできなかった。負け。
2試合目の相手はR少年ファイターズ。このチームは、後に1軍になって、連盟主催のカップ戦決勝戦で対戦するチーム。
最終回まで3-1で敗戦濃厚。。でもエースが値千金のライトオーバーの逆転スリーランで勝利。
最後の試合を勝利で締めくくり、コーチたちも喜んでくれた。
今でも忘れない試合後の記念写真。みんな笑顔だったのが印象的だった。
最初?で最後の懇親会。
Tコーチが低学年を卒業する子供達に一言ずつメッセージを話してくれた。さて次は息子の番。
「S!お前はまだまだやなー、ウン、まだまだや。上はもっと厳しいぞ!もっと頑張らんと使ってもらえんぞ!もっとやれる。頑張れ!」
と一言。短いけど、1年見ていただいたコーチからのありがたい言葉。私の中では未だにこの言葉が耳に残っています。
そして低学年野球を卒部。野球を全力で、真剣に、そして楽しく過ごせた1年だった。
続く
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