2023年振り返り 前半(1月〜6月)


まえがき


今日は12月30日。今年も残るところあと1日!
昨日見にいった劇場版スパイファミリーの主題歌である星野源の「光の跡」(めっちゃ良い曲。全人類聴け。)を聴いてたらなんだかしっとりした気持ちになってXでもポストしたが、もう一度1年間を振り返ってみたくなったのでこの記事を作成した。
(※4月は内容が重たく、文章も長いです。苦手な方は5月までスキップしてください。)


1月 友達と遊びまくる


親友と映画を見にいったり、1月生まれの友達の誕プレを一緒に買いに行ったりと楽しい時間を過ごしていたと思う。
1月生まれは2人いて1人はrom&nd(コスメブランド)のアイシャドウパレットとブラシセットを買ってあげた。
もう1人は生活の木のミモザのアロマオイルが欲しいと言っていたが、発売するのが2月だったので2月に延期。たしか試験終わりに一緒に
買いに行ったと思う。

2月 中学の頃の部活仲間集合!Twitterのスペースを始める。学童保育のバイトを始める。



中学生の頃の部活仲間と鍋を食べに行った(めっちゃ寒かったのをよく覚えてる)一人、保育士の仕事をしている友達が前日になってノロウイルスになり欠席。
去年ODで自殺未遂をした際に家まで車で駆けつけてくれた人もいたし、しばらく連絡が取れないまま(病棟では携帯があまり触れなかった)だったので心配をかけてしまったと思う。そのことを謝罪した。全員には会えなかったけど、久しぶりに見たみんなは良い意味で大人になっていた。

Twitter(現在X)のスペース機能でライブ配信することを覚え、春休みは暇だったので家事をひと通り終えたらスペースをやっていた。なお、今の彼氏とはスペースで出会った。

2月後半。保育園で働いている母から同じ職場の保育士さん(しかも私の同級生のお母さん)から紹介された学童保育のバイトの提案をされる。どうやら息子さんが就職を機にバイトを辞めるため、代わりの人を探していた最中らしい。その学童は昔、私が小学1〜4年生の途中まで通っていた。
とりあえず母経由でアポを取り、履歴書を持って面接へ。自身に発達障害があることをオープンにするとこのような答えが。

「色んな子どもたちがいるように色んな指導員がいてもいいと思うの。」

なんだか心がじんわり温かくなって嬉しかった。

しかもその指導員さんは私と一緒に過ごしたことをとても鮮明に覚えててくれてた。しかも、一緒に過ごしててすごく楽しかったと言ってくれた。こんなに嬉しいことあるか?


とても嬉しかったのを覚えている。ここで1年間しっかり働こう!大学があっても!
しかし、この決意はこの後呆気なく散ることとなる。そのことをこの時点の私は知る由もなかった。

3月 もう一回集まる。友達とお花見に行く
前回ノロウイルスになり欠席した同期が幹事を務め、今度こそ全員集合することに。この時の集合場所は海だった。フグの死体がいっぱい打ち上げられてた汚ない砂浜だったことを覚えてる。
このときは韓国料理の店へ行った。7人だったのでテーブル席がギチギチだった。私は車を持ってる社会人の同期に乗せてもらっていたのでお酒を飲ませてもらえた。ここで人生で初めてマッコリを飲んだ。私には桃やバナナなどの味がついてないと飲むのがキツかった。私以外お酒を飲む人はおらず、その飲みっぷりから「酒」とあだ名がつけられた。あと、顔がちっちゃいことをめちゃくちゃ褒められてニッコリだった。

大学友達とお花見に行った。気温が暖かったため早咲きの桜だった。

桜。美しい。


4月 適応障害になった&母親に包丁向けようとして医療保護入院

「なんだ?ここから急に物騒だな!?(読者の声)」

短大時代まで楽しく通えてたキャンパス。しかし、大学に編入してさぁ4年生、最後の年!卒論!といったところで大学に行くのが怖くなった。

原因は不明だったが、今になったらわかった気がする。私はもともと短大在学中に自殺するつもりだった。20歳を迎える誕生日に死ぬつもりだった。でも死ねなかった。その時の唯一の希望が短大で出会った同じような過去を持った友達であり、その子が編入すると言ったから私も頑張って試験勉強をして編入した。すべては生きるためだった。大学に入ってからのことなんて考えてもいなかった。今が良ければそれでよかった。

バスや電車に乗ると気持ち悪くなり、講義をまともに受けられる状態ではなくなった。しかし、家着いたら元気になって大学行くとしんどくなる。もしかして適応障害ってコト…!?
しかもこのタイミングでかなり自分にとって衝撃的な手紙を例の友達からもらってものすごいショックを受けることになる。これがトドメとなった。
(内容は友達に許可をもらってないのでここには載せません。)

大学へ無理やり行って顔面をぐちゃぐちゃにしながら保健室へ行ったらカウンセリングルームへと通されて、カウンセラーさんからまずは病院を受診して場合によっては休学を検討した方がいいと思うと言われた。

家に帰り、母にそのことを伝えると「あんた授業料はどうするの!?もう支払いしちゃったじゃない!休学なんて認めません!頑張って大学行って!」と言われてカッとなった私は「もう十分頑張ってるの!もう無理!もう死ぬ!!!」と母に怒鳴り散らし、キッチンへ包丁を取りに行こうとした。すると、母と妹に取り押さえられた。泣きながら抵抗したが、人2人分の力には勝てなかった。まさに修羅場だ。そこに父が帰ってきて驚いた表情をしていた。

落ち着いてから翌日、主治医にはあえないかもしれないが、病院へ行って相談することにした。
翌日、父が付き添いで病院へ行き主治医ではない医師にこれまでの経緯を説明した。するとすぐに医療保護入院になった。

5月 引き続き入院、休学を決める

この時の入院は若い人が多かった。これまで飲んでいたストラテラ(ADHD治療薬)はまれに希死念慮を誘発するらしく、私の希死念慮の原因の1つかもしれないということで中止になった。

主治医と両親と教授と相談し、休学することにした。(この時点では後期から復学する予定だった)
ポケモンが大好きな人が入院していて私はモクローが大好きなのだが、仲良くなったらモクローのポケモンカードをくれた。あと、モクローが印刷されているふせんやメモもくれた。

5/21に医療保護から任意入院に切り替えになり、自由に外出ができるようになった。

6月 ファーストキス奪われる。その数週間後退院

人生で初めて好きな人ができました。
詳しくはこちらをご覧ください。

6月末に退院しました。

後半(7〜12月)へ続く

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