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マクラのように生きている


積読って増殖しませんか? 実のところ、積むこと自体が目的なのでしょうか? そんな筈はないと存じます。いつか読みたい。でも今じゃない。読む気はある。なのに疲れている。

そう言いながら、積読じゃない別の何かは読んでいたりします。電車を待ちながらスマホのweb記事を。ちょっと涼む気で入った駅ナカ書店で運命的に出会う本の冒頭を。note散歩だってそう。そうして何か読めば、別の読みたい本が必然的にやってくるんです。読めば読むほど(と言えるほどの量を読んではいませんが)、積読はもっと高くなってウィッシュリストはさらに長くなっていきます。

働いているのが積読が減らない要因でしょうか。そういえば『なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)』、さっき立ち寄った近所の書店で、面陳列がリピートされていました。

待ってるんです。積まれた1冊1冊の本、その中のどれかを読むのにうってつけの日を。

自己啓発本で読んだ目標達成の手順で積読解消をアレンジするなら、
 (1)具体的などれかの本を
 (2)締切日を決めて
 (3)ペース配分
といったところでしょうか。
 (4)読んだあとに得られるものを具体的にイメージ
ここまでするともっとよさそうですね。資料とか教材ならこういう読み方が効率的な場面もあるでしょう。けど、趣味で読む本だと、そぐわないかな……。

待ってるんです、機が熟すのを。

ノルマこなす程度のテンションで読む楽しさなんてたかが知れてる。そうではなくて、1冊の本と自分とが最高にマッチするタイミングで読みたいんです。その本との生涯最高マッチ率が3%だとしたら、最大値3%に近いタイミングを狙いたい。そうでなくして最大の感動が得られる訳が無いんです。

趣味で読むなら感動したい


たとえば、胃腸が弱いのに甘いものを食べたがるとき。腹痛で脂汗が絞り出されてるとき。知的レベルでは接近できなさそうな夏目漱石と、体力レベルでは近づけてる気がして『硝子戸の中』を読む。腹痛が出会わせてくれる読書。未読のまま本棚にあることで放たれる無言のプレッシャーから読むのよりもずっと、宿命を感じる。弱くて不便だと嘆いていた胃腸に感謝の念すら覚える。

アーカイブを観るのと現場で目撃するのって全然違う。現場の空気を1度浴びるのと何度もアーカイブを観るのとでは、学びやら癒しやらの絶対量が違う。そう感じさせてくれた芸人が突然に死んでしまったとき。もう1度だけあの肉体から放たれる気配に触れたかった胸いっぱいに吸い込みたかったと願ってやまない日に『黄泉比良坂』のストーリーを読み直した。ずっと嫌いだったイザナギを初めて許せた。 

体験したどんな時間も本を読むのに役に立つ。本を読むまでのマエセツのように生きている。

ただ触れるのではなくて準備がなされた状態で触れることで、居合わせた事件のように受け取れる。そういう瞬間を、待っているんです。だから私の積読はこれからも増えるでしょう。

そんな日常はもう、落語でいうところのマクラなんです。


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