ヒョウタンツギをさがして
なぜかそのマンガは近所の病院に全巻置いてあった。
病院へ行くたびそのマンガを手に取った。今まで見たことがないレトロな絵柄と心に突き刺さるような人間ドラマの数々に、子ども時代の私はすっかり魅了された。
そう、その作品の名前は『ブラック・ジャック』。
マンガの神様・手塚治虫先生の少年マンガにおける最期のヒット作であり、現代まで続く「医療マンガ」のジャンルを形成した金字塔的作品である。
手塚の死に水は、俺がとってやる
『ブラック・ジャック』は、秋田書店の「週刊少年チャンピオン」にて、1973年から1978年にかけて連載された。
手塚治虫先生といえば、大ヒット作品を飛ばすマンガ家。当然『ブラック・ジャック』も華々しく連載が始まったのだろう...とお思いの方も多いことだろう。
だが、実際は全く違う。1970年頃、手塚治虫先生は大きなスランプとピンチに陥っていたのだ。
ヒット作は途切れ、アニメスタジオの経営に失敗...。そんな時に、手塚治虫先生の前に現れたのが「週刊少年チャンピオン」編集長・壁村耐三氏(通称・カベさん)だったのだ。
カベさんは手塚治虫先生に新連載を依頼し、そうして生まれたのが『ブラック・ジャック』だった。だが、当時は少年マンガで医療モノ...と言うことで誰も期待しておらず、連載前も編集部内では物議を呼んだが、カベさんの「手塚の死に水は、俺がとってやる」の一言で『ブラック・ジャック』の連載がスタートした。
...こうして、現代にまで読み継がれていると言うことは、その後『ブラック・ジャック』がどうなったのかは想像がつくかもしれないが、なかなかにドラマチックな裏話が隠されているので、気になる方は『ブラック・ジャック創作秘話』を読むことをおすすめする。
大人になってから読む『ブラック・ジャック』
なぜ、手塚治虫先生の『ブラック・ジャック』を思い出したかというと...
先日、誕生日プレゼントで『ブラック・ジャック』の単行本をいただいたからだ。
所々のエピソードは覚えているが、なんとなく虫食い状態の記憶。大人になってから読む『ブラック・ジャック』は、あの幼い頃に近所の病院で読んだ時とはまた違った感想を抱くに違いない。
けれど、せっかく年を重ねて『ブラック・ジャック』を改めて読む機会に恵まれたのだから、ちょっと違った視点で本作を楽しみたいところだ。
ヒョウタンツギをさがして
『ブラック・ジャック』に関わらず、手塚治虫先生の作品といえば「ヒョウタンツギ」だ。
手塚治虫先生の妹さんのイタズラ描きから誕生したキャラクターで、突如作中に現れる生き物だ。
ヒョウタンツギが登場したり、ブラック・ジャックや登場人物たちの顔がヒョウタンツギになっていたり...。とにかく進出鬼没な生き物なのだ。
けれど、この生き物には面白い裏話が隠されている。
『ブラック・ジャック創作秘話』4巻で映画作家・大林宣彦はこう話している。
手塚マンガでは表現が過激になりすぎた時、ヒョウタンツギが現れる。"妹"と言う禁欲の象徴として「お兄ちゃんダメよ」って...。手塚マンガの"自由"は決して野坊主なものじゃないんだ。(ブラック・ジャック創作秘話 4巻より)
人の生と死を題材に扱う『ブラック・ジャック』。時には、怒り、絶望...。色々な思いが交錯して表現が過激になってしまうこともあるだろう。
そんな時に、ひっそりと現れるのがヒョウタンツギなのだ。
奥底に滾る思いや欲望に触れる
手塚治虫先生がヒョウタンツギと出会ったのは『ロストワールド』の草稿を行っていた戦時中のことなのだそう。
戦時中の禁欲的な生活の中で、自分の奥底に滾る思いや欲望を『ロストワールド』にぶつけていた。そんな時に、妹さんが見せてきたラクガキのヒョウタンツギで我に帰ったのだ。
手塚治虫先生の表現のストッパーのような役割として登場するヒョウタンツギ...。
大人になってから読む『ブラック・ジャック』では、このヒョウタンツギを探してみたいと思った。そしてそのシーンに隠された手塚治虫先生の滾る思い、欲望に触れてみたい。
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