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学校に行けなかった私へ

10年経って、
それなりに結構元気に、生きています。

学校いかなくてもいいんだよ。勉強しなくてもいいんだよ。そんなことしなくてもね、幸せになれるからね。大丈夫だよ。

ツイッターで目にした まい さんの言葉はあの頃の私を丸ごと肯定してくれた。紛れもなくずっと欲しかった言葉だった。
わりと長い間私に明るい未来なんてあるわけがない、私が幸せになれるわけないと、そう思い込んでいたので今でさえ涙が出そうになる。

学校に行けない理由は、当時も今もうまく説明ができない。いじめられたわけじゃないし、本当の体調不良でもなかった。ただある日の行きたくないから始まったことは覚えている。勉強も部活も塾も完璧を目指していて、私なりに一生懸命だった。担任の先生との相性もあまり良くなくて、苦手な給食や体育、気をつかう集団生活、繊細な私はすっかり疲れてしまっていたのだと思う。学校に行かない日が続くと、生活リズムは崩れ、眠れないから起きられないのか、起きたくなくて眠らないのか自分でも分からなくなった。そうしたら、甘えとわがままで学校に行かないとしか、みんな思えない。頑張れない自分を自分自身がいちばん許せなかった。
母もそんな私のことを許せない日もあれば、許せる日もあった。話を聞いてくれる日もあれば、どうして学校に行けないのと怒る日もあるし、叫びながらたたかう朝もあった。諦めて母が出社する時間になって安心したこともある。私が学校に行けないせいで母は学校のいろんな人から責められたように感じただろう。それでも行けないのだから、本当にどうしようもなかった。私の世界には家族しかいないのに、そんな大切な家族さえ悲しませてしまう。生きていて申し訳なかった。

勿論頑張って学校に足を運んだ日もある。別室登校も、保健室登校も、数時間だけの教室も。けれど、なぜ学校に来ないか問われたり、あるいは学校に来ない子として丁寧に扱ってもらったり、普通に接してくれたり、腫れ物のようだったり、もうどれでも、外に出るだけですごく疲れてしまう。優しくされてもそんな価値がない人間に、と悲しくなるし、学校に行けない明確な理由もない、自分の存在意義を見出すことが難しかった。話すこと、食べること、動くこと、どれもこれも苦手に感じた。

なんとか卒業して高校、専門学校に進学したけれど、頑張れるのは最初だけで、学校に行けない日々は必ずあった。たまたまギリギリ卒業できた。学校に行くのが苦手な人間はいるのだと思う。

けどね、学校に行けなくても大人になれる。今は笑顔で生きている。すこしやりがいを感じられる仕事と出会って、愛する人と一緒に暮らしている。好きなところに足を運んで、好きなものを食べて、自分の力で手に入れた自由がある。

私の未来に愛する人との子どもができたなら、どんなことがあってもあなたの味方だよ。なにがあっても愛しているよ。大切で仕方がないよと幾度となく伝えたい。そして本当にそうすると誓う。

明日もお日様の光を浴びて、仕事をして、ごはんを食べて、テレビを見る。もう大丈夫だよ。