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【体験記】ヴィパッサナー瞑想〜初日から3日目〜

私が初めてヴィパッサナー瞑想10日間コースで体験した事を書いていきます。

人によって体験する内容はそれぞれ異なるかと思いますので、参考程度に読んでいただけたら幸いです。

さて、本題のヴィパッサナー瞑想体験記ですが、かなりの長文になりそうなので、数回にわけてお届けいたします。

ブログを始めたきっかけは⇩こちらをご覧ください。


この瞑想法を知ったのは、別々の友人3名から京都と千葉にあるヴィパッサナー瞑想の施設で、10日間誰とも話すことなく瞑想した、という話をそれぞれ聞いたからです。


その時の会話の内容で印象に残ったことは…

・瞑想法の指導者がずっと滞在して指導してくれる
・メソッドもしっかりしている
・食事や寝床の用意してくれている
・その全てがボランティアで賄っているので、費用はお気持ちで寄付制(コース終了時自由に決めて良い)

との事で、シンプルにすごい運営の仕組みだな〜!と思いました。

これまで瞑想の経験はほとんどありませんでしたが、是非1度は参加・体験してみたい!
という気持ちになったことがヴィパッサナー瞑想を始めるきっかけとなりました。


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時は流れて参加初日。

京都の”ダンマヌーバ”という施設でお世話になりました。

参加申込みは日本ヴィパッサナー協会のホームページから登録するのですが、すぐに定員埋まってしまいますのでご注意ください(最初に考えていた日程は登録が間に合いませんでした)。

初日はアーナーパーナー瞑想というのを教えてもらって、早速実践しました。

これは起きている時でも、寝ている時でも、無意識的に必ず行っている”呼吸”に意識を向けるという瞑想法です。
特に鼻腔の三角形の部分のみに意識を向け続けるという瞑想であり、意識を向ける部分を小さくすることで、感覚が研ぎ澄まされ鋭敏になり、このあとの瞑想にも役立つというものでした。

実際にやってみると、最初の数分程度ならまだ集中できましたが、何時間ともなると意識が別のところに飛んでしまいます。

集中しようと気をつけていてもいつの間にか他のことを考えてしまっていたり…

眠さを感じていたり…

意識がまどろんでいたりして…(汗)

呼吸の鼻腔部分を観察し続けるという、至ってシンプルかつ簡単なことのはずなのに、継続して意識を保てない、、、ということに困惑しました。

また、あぐらで座っているだけなのに、私の場合、身体中の痛みが激しくて、それも瞑想中の意識を妨げられる要因の1つでした。

そして夜が来た頃には、録音された講話を聞く時間があり、「こんな簡単なことも意識し続けられないという事実に、驚いたことでしょう」と言われて、その日の感じたことの図星をつかれることが多くて、面白かったです。

「意識が呼吸の観察から離れてしまった事を5分以内で気が付けるようにしましょう」と目標を掲げられて、意識は一つのことを意識し続けられない。

という性質がある事を学びました。

それからは意識が呼吸から外れたことに気が付いたら、すぐに意識を呼吸に戻すということを続けました。


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2日目もアーナーパーナー瞑想。
やはりずーっと呼吸だけを意識してそれを保ち続けることは簡単なように思われるが、数十分続けると意識が離れてしまう…

このことに気がついて意識を鼻腔への集中に戻すということを繰り返します。

午後からは更に範囲を狭めて、鼻腔の三角部分から上唇の上部に自然な息が表面に触れているかな…?と、それぐらい微細な感覚を観察するよう指示があり、そのように瞑想を続けました。

範囲を小さく狭めることで、より感覚が鋭敏になるそうです。

続けていると瞑想中の身体の痛みは激しさを増していきましたが、ベッドで横になっている時などは瞑想中に感じる痛みはなかったし、背中の痛みなどは慢性的なコリというか、疲労による痛のピーク時と同じくらいだなと思って、まだ長時間座り続けることに慣れていないからだ…

この時かなり辛かったですが、慣れていないせいにしていました。


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3日目、この日から本格的にヴィパッサナー瞑想が始まりました。

この瞑想法は、全身くまなく意識の目で頭頂から足先まで観察する瞑想です。
その間に体の痛みなどいかなることが起ころうとも、心を波立てることなく平静を保って、ただひたすらに瞑想中に起こるすべてのことを観察するということをしました。

私は座りだすとすぐに前日のような全身の痛み(特に背中の激しい痛み)がやってきて、痛い部分だけでなく他の部位はどんな感覚があるか、平静を保つように気をつけながら観察し続けました。

痛みが激しかったのでかなり辛かったですが、2時間ぐらいず〜〜っと耐えていると(体感時間が長かった)、フッと背中の痛みが取れて何も感じなくなった瞬間が訪れたので、とても驚いたし同時にものすごく感動しました。

そして思考的にもなるほどな〜、と感じました。

この時の理解としては、結局身体の痛みというのは身体の防衛反応として脳が作っているものなんだと感覚的に理解したのです。

人の感覚はそれぞれ異なると思われます。

例えば、平気で火渡りをする修行僧や、痛みに強い達人の映像を見たり、呼吸法で痛みを流すなど、あり得なさそうな現象が通用する人も世界には存在する。
ということは、脳がその痛みの”幻想”とまでは言わないにしても、反応して作り出しているものなんだな、と感じました。

つまり身体にはなんの異常も無いはずなのに、慣れていない瞑想や座り続けることの疲れ、緊張感が背中の痛みを創り出して、休ませようと指令を出しているのだなと思いました。

そんな事を思いながら冷静に観察し続けていると、部位ごとでは激しく痛い場所とそうではない場所が浮き彫りとなって、脳の錯覚、あるいは誤作動であるという事実を、全身が理解する。
その段階まで身体の感覚が理解できると、脳も心も徐々に落ち着きを取り戻して、背中が痛いと思い込んでいた誤作動に気が付き、沈静化したのではないか…と考えられました。

なるほど…やはり脳の錯覚かと。

そして、その理解を得たときに、おもだった体の痛みがほとんど消えたので、もうこれほどの痛みは座って観察しているだけでは出てこないだろうなと安心しました。

しかし、そう感じたのもつかの間で、すぐに次の痛みに襲われます。
身体全身が楽だったのは体感時間としては5分ほどで、今度は右足がガンガンと響くように痛みだしました。

また、痛みの感覚が強くなってくることで、これはかつて経験したことがあると感じました。

小学校1年生の時、公園の遊具で遊んでいた時に足を挟んでしまい、捻挫しました。
その時と同じ痛みが再現され、全身に寒気、右足は激痛、左足も痛く、脳はパニックを起こしたように真っ白になりました。
吐き気もこみ上げてきて、本当に吐いてしまう...!というところで瞑想を解きました。

お昼休憩が丁度訪れて、冷静に思考する時間が取れました。

瞑想中の体験できる再現性とリアリティーの高さに驚きと、身体と脳の記憶保持力の凄まじさも感じました。

先の体験を振り返った時、捻挫した時の激しい痛みが起こる前に、背中の痛みが消えるという成功体験があったので、足の痛みを観察することに集中できたかな、と思います。

また、自らこの記憶を回想したい!などという気は一切なかったので、順番やタイミングが調整が本当にすごいな、と感動。


休憩の後の瞑想では再び右足に痛みが生じましたが、先程再現された痛みほど強くはなく、足の土踏まずの部分が、円形状にピクピクッと動く感覚があり、接骨院で治療中の電気治療中の感覚に似ているなと感じました。

3日目の時点ではこのように瞑想法の理解が進み、こんな体験ができるとは素晴らしいと思いました。
当時の自分では受け止めきれなかった肉体へのダメージは身体に記憶され残っていて、大人になった私が冷静にそれらを観察して、脳のエラーやバグ、消化不良を起こして溜め込んでしまった感情や記憶を受け止めてあげると、浄化されていく。
という反応が起きる事が、脳だけでなく身体全体で理解していきました。

次の休憩に入った時、若干感じていた右足のぎこちなさが減って、明らかに足の稼働が良く、ナチュラルに歩けるようになって、とても驚いたのを今でも覚えています。
その時は、まるで手塚治虫の『どろろ』の主人公にでもなったような気分でした(古くてわかりにくいかもしれませんね)。

そのように自分の理解が体感も伴って深まっていきました。


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今回はここまでにしておきます。

拙い文章でしたが、最後まで御覧いただきましてありがとうございました!

次回この続きから書きます!

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