嫌な奴らを活躍させすぎる(「怒ったら負け」を考える)
この記事を書こうと思ってから、重めの風邪を引き、ここ最近、復調してきた。そこで営業に行き、けちょんけちょんにディスられた。何というか、社会の害悪(害虫)みたいな言われ方をした。
どんな仕事にも負の側面はあり、そこを拡大解釈していけば非難することは可能、それは認めよう。しかし、資本主義社会であれば、あらゆるビジネスは利益追求のために、存在しており、利益がなければ社員は食ってはいけない。
面と向かって、七十近いじじいにネチネチと貶され、メンタルにダメージがない、といえば噓になる。振り返れば、あのじじいは「分け前を寄こせ」と言いたかったのかも。じゃあ、そう言えばいいのにね。
今頃、あのじじいは「業者相手に社会の不正義に対して論破した」と意気軒昂に勝ち誇っているかもしれない。老い先短いんだから、勝手にほざいてろよ、と生きている人間に思わせるのは、やはり得策ではなかろう。ただ、そもそも、論破するための打ち合わせで、じじいの暇つぶしに付き合わされたのだ。ああいう老人にはなるまいとも思った。
午前中にそんなことがあり、昨日の午後はずっと不愉快で、頭にモヤがかかった感じが続く。帰宅後、十時間ぐらい寝て起きたら、体重が2キロも減っていた。ストレスで食べる量が減り、脳みそもよく働いていたのだろう。
すっきりした頭で、本題に戻ろう。「嫌な奴らを活躍させすぎる」というのは、攻撃された出来事や嫌味な相手のことを「反芻」してしまうことだ。嫌な出来事をループさせ、怒りに燃えると、それだけで疲れる。何より、自分にとってマイナスな奴らを増幅させたり、考え続けるのって、不毛過ぎるのではないか。わたしの人生がもったいない。無駄な時間を取り、落ち込むなんて、馬鹿馬鹿しい。相手にパワーがある、影響力を持った人間であるなどと認めていいのか。否、違う。
それにわたしがこだわっているのはおそらく傷つけられた自尊心についてなのだろう。つまり、軽く扱われ侮られたこと、敬意が払われず馬鹿にされたことなどで、自分の存在を卑小に感じさせた相手に憤っているだけなのだ。
これまでも、大小さまざまな出来事、嫌な奴、嫌味な奴、横取りする奴、盗む奴、意地悪な奴、被害妄想のひどい奴などから被害を蒙ってきたが、その人たちのことを考えた時間は自分に必要だっただろうか。いや、全然、必要ではなかった。嫌な気持ちを煮詰めたところで、ヘドロになるだけで、後退するばかりだ。
自分の人生に負の影響を与えた相手に、自分の脳内の一番大きなステージを与えて踊らせ続け、ソロステージで熱唱させるのって本当にくだらない。
反省するとか、自分の至らなさを改善するための努力をするとか、しおらしいことを言うこともできるが、攻撃したくて攻撃してきた人間の話を真に受ける意味なんてあるのか。それこそ、真に受けたら、仕事を辞めるしかなくなるではないか。自分の人生の根幹を揺るがせるような出来事にすべきではない。
ただ、一晩寝て、「やっぱり、どうでもいいな」と思えたのも事実である。他者からの攻撃できついのは以下のようなことだ。
今回のじじいの攻撃は④なので、比較的ダメージが少ないのも事実。メンタルが落ちるのは①だ。①を雑談に織り交ぜて、へらへら言ってくる奴、告げ口でわざわざ伝えてくる輩もいる。
そんで、①と②のことを指摘してくる人(身内である同僚)って、ほぼほぼ仕事をしていない人たちなので、仕事をする方が悪人みたいな扱いをしてくるから、超絶ムカつく上に会社も傾くのだが、長期的な視点のない単細胞なので平気でそういう無益で無駄な時間を作る。そいつらにも、本当に時間を使いたくない。
「怒ったら負け」なのだ。自分の時間も空費させてしまう。さあ、忘れよう。脳内から削除。おまえに時間を使えるほど、こちとら暇じゃないんだよ。
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