見出し画像

映画『天国にちがいない』(2019)の感想

エリア・スレイマン監督の『天国にちがいない』を映画館で観てきた。

スレイマン監督が主演し、脚本を書き、スレイマン監督自身を演じている。この説明だけでおわかりいただけると思うのだが、非常にメタ的な作品である。

たたずまいは、松尾スズキのようで、妙な親近感を覚える。

そして、スレイマン監督はチャップリンのように、しゃべらない。表情としぐさだけの演技が続く。視線ひとつで、あるいは無表情で、感情が表現される。そして、それで十分なのである。

この映画は、何重もの構造になっている。

最初の舞台は、監督の故郷であるパレスチナである。

パレスチナでの監督の暮らしに、不自由があるようには見えない。

ちょっと迷惑な隣人たち、たかりをする家族(事を荒立てない店主)、女性の拉致監禁しようと試みている男どもを前に何もできない自分、水を運ぶ女を盗み見る。これがイスラエルとパレスチナのメタファーなのかどうかは、わたしには、はっきりとはわからなかった。

むしろ、我々が生きる世界のある種の共通性、普遍性が描かれているのではないかと思った。ここにも、普通の人々、凡庸な悪人がいる。

スレイマン監督は、自分の映画の企画を売り込むために、旅に出る。

まずはフランスのパリが舞台。パリの人たちは、ファッショナブルでセクシーで、たばこをふかしながら、倦怠感でいっぱいである。手厚い福祉を受けるホームレス(形容矛盾である)、公園の椅子を奪い合う観光客、セグウェイをとばす警察官、出店ルールを守るカフェのマダム。そして、フランスの輩に地下鉄でストーキングされたり、フランス人とパレスチナ人の見わけもつかない日本人観光客に話しかけられたりもする。ステレオタイプと虚構的な嘘が入り混じっている。

そして、パリの映画配給会社に企画を拒絶される。世界的に有名な監督だって、そういった傷を負って生きているのだなと再確認をする。それを描く人はそう多くはないのだけれど。(そういえば、わたしはクリント・イーストウッドが、配給会社の重役をまえに、毎回パワーポイントでプレゼンをしていると聞いて驚愕した覚えがある。イーストウッドほどの大物でも、それをやらなければならないのかと)

フランス人の担当者はカジュアルな格好に似つかわしくなく、丁寧に企画が通らなかった理由を説明してくれる。これも、ある種のステレオタイプである。フランス人は拒絶するときも、言葉を尽くし、儀礼的にふるまう。これが後半のアメリカ人との対比になっている。アメリカ人の却下は、わかりやすく、受付のソファで、ジョークを混ぜながら、立ち話で終わってしまう。そのアメリカの映画配給会社の名前は"meta film(メタフィルム)"なのである。

企画が通らなかった理由は「パレスチナらしくないから。ほかのどこにでもありうることを描いている。舞台がパリでもおかしくないから」というものなのである。

パレスチナらしさって何? 悲惨な場所で懸命に生きる人々、イスラエルへの不満や嘆きがなければ、人々はパレスチナに興味を持たないのか。これは監督流の反発の示し方である。その仕返しとして、フランス人とアメリカ人が、戯画的に描かれる。アメリカの銃社会の描写には、ものすごい皮肉を感じた。そして、空港の身体検査が普通の人の倍以上かかることがコミカルに描かれ、それがパレスチナ人の日常なのだろう、と思った。

映画の終盤で、監督は、パレスチナの日常に帰ってくる。そこには、やっぱり、ちょっとうざい人間がいて、クラブで踊り狂う若者がいる。そして、監督は、その若者たちの将来を憂いている。彼らへのまなざしは「祈り」にも見えた。

この映画がメタフィルムそのものであることはまちがいない。

そして、偶然にもイスラエルが舞台のナタリー・ポートマン監督・主演の『愛と闇の物語』を観てきたのだが、こちらは、イスラエルを描いているようで描いていない作品であった。

パレスチナを取り巻く世界を描くことで、パレスチナを描いたスレイマン監督と、イスラエルの中にある人類が普遍的に抱える問題に対峙したポートマン監督は、非常に対照的である。また、後日、感想を書きたい。




チップをいただけたら、さらに頑張れそうな気がします(笑)とはいえ、読んでいただけるだけで、ありがたいです。またのご来店をお待ちしております!