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向田邦子(1985)『男どき女どき』の読書感想文

向田邦子の『男どき女どき』を再読した。1985年に新潮文庫から出された短編小説とエッセイの本だ。

十代の頃、向田邦子の技巧性(うまさ)に恍惚を覚えた記憶がある。なんて、天才なのだろう、と。

今回、再読して、彼女が天才であることは間違いがないと思われた。しかし、彼女の限界もおぼろげながら見えた。

向田邦子はフェミニズムを超越したものを書いている、などという賛辞を聞いたことがある。家族の尊さは思想を超える、と言いたかったのかもしれない。しかし、フェミニズムは取るに足らないものなのだ言うことによって、向田邦子を高く評価している、最大級の賛辞になる、とも思えない。わざわざ、ある思想を貶める必要もないだろう。

今回、わたしが読んで感じたのは真逆のことである。向田邦子は家父長制度の枠組みの中を決して出ることはなく(出られず)、その制度をつぶさに観察し、作品に落とし込んだ人である、と。

最初の短編小説の『鮒』は不倫をしていたお父さんが、不倫相手にちょっとした復讐をされ、そのことに恐怖を覚えるのだが、それよりも、もっと怖いことが待っている、という話である。

この時代の女性たちで、夫の不貞がわかったから離婚して自活する、という選択肢を持っていた人たちは少数派である。現代でも、それは大きく変わらないが、我慢しなくなった人が増えているのも事実である。家庭の中に閉じ込められた専業主婦のしたたかさと冷酷さが描かれるのだが、それはしょせん制度によって身につけざるを得なかった特性ではないか。男性が会社組織の中で、ホモソーシャルな関係性にうっとりして(そこには同性愛性も含まれ)、同僚の男性を利用するのも、家父長制の一部である。男性も、昔よりはそのようなしがらみを我慢しなくなってきている。それはよいことだ。男も女も、自由であるべきなのだ。

後半のエッセイでは、男社会の中でフリーランスの脚本家(作家)として生きることの寄る辺なさ、不安などが率直に書かれている。

「日本の女」と「笑いと嗤い」では、ウーマンリブや男女同権という言葉が出てくるが、決してポジティブなニュアンスでは使われていない。わたしがこのエッセイを糾弾すれば「味わいのわからない、つまらない、情緒も趣きもない人間だ」と糾弾されそうなのだが、奴隷として慎ましくふるまうことは美しい、と言っているように思われた。しかし、そこには揺らぎも感じるのだ。成功した脚本家なのだから名誉男性としてふるまうことができたはずなのに、それができない向田邦子も確かにいる。

この本が出版されたのは1982年。彼女は1981年の飛行機事故で亡くなっており、加筆修正などもできなかった。だから、短編小説とエッセイが寄せ集められたような本が出版されたのだろう。それに対して、彼女の考え方や思想性の古さを指摘する、というわたしの試みは、まあ、なんとも間抜けで、後出しじゃんけんで、自分がひどく卑怯な人間のように思えてくるのも事実である。

しかしながら、この本を読んだ二十歳前後のとき、わたしは彼女の古さに、全然気が付かなったのだ。向田邦子は間違いなく天才であるが、彼女の作品から、家父長制の何たるかも、よくわかるのではないかと思われた。

タイトルの『男どき女どき(おどきめどき)』は、世阿弥の『風姿花伝』からの引用である。「男どき」とは、運が向いているとき、うまくいっているとき、という意味だ。「女どき」とは、巡りあわせが悪く、ついていないとき、という意味だ。女というだけで、すでにマイナスなのだ。「雌伏」なんて言葉もわたしは嫌いで、この言葉を無意識に使っている人は敬遠してしまう。

もちろん、言葉狩りだ、考えすぎだ、という意見があることもわかっている。もっと鷹揚になれ、と誰かさんは言うかもしれないが、気になる言葉は気になる。

東アジアの文化においては、やはり、儒教思想も根深い。そこも考慮しなければ、わたしたちは、自分たちがどのような世界で暮らしているのか、理解することはできないのだと思う。

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