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#映画感想文『万引き家族』(2018)

是枝裕和監督の『万引き家族』を2018年7月某日、映画館で観た。

金曜日の22:00からの回は空いていて、ほとんど貸し切り状態で見られたような記憶がある。

わたしはこの映画を見たとき、池脇千鶴演じる刑事が、自分に一番近いような気がした。日本社会の中で公務員として働き、公権力を持った彼女が言っていることは正しい。しかし、その正しさは誰も救わない。正しいことはいくらでも言える。ただし、それは誰も救うことのない空虚な言葉に過ぎない。

父親でありたいと願いながら、父親を演じる中年男、途方もなく孤独な少女、家族全員がみなそれぞれ事情と苦悩を抱えている。しかし、それは同じ家族という枠組みの中にいながらも、決して感情的には交錯しない。そういう意味では運命共同体になりきれない烏合の衆ということなのかもしれない。

そして、父になる』が、役割を引き受ける映画だとしたら、『万引き家族』は一時的に手に入れた役割が、失われる物語である。

人間は社会的な生き物で、役割を必要とする。

時に役割を嬉々として演じ、時に決死の覚悟で役割からの離脱を試みる。

私たちが自明だと思っているものは意外と曖昧で根拠のない薄氷のようなものなのだ。役割を与えられ、そこで安穏としていられるうちはいい。ときに、そこから出ろと強引に腕を引っ張るような輩が現れたりする。役割は容易に、ぐらぐらと揺らぐ。

この家族は、社会(公権力)によって、解体されてしまう。しかし、それは他人事ではない。今日の日本において、盤石といえるような家族や組織といった共同体の庇護のもとで、ぬくぬくと生きていけるような人間は少数派ではないか。私の社会的な役割やポジションなど吹けば飛ぶようなものだ。核家族化が進み、単身世帯も少なくない。私たちは役割を欲しなければ手に入れることができないし、役割を演じるためには諸々の資格を要求される世界に生きている。もちろん、身分制度のある封建時代に戻りたいとは思わないのだが、家族すら手に入れなく時代になってしまっているのだと思う。

『万引き家族』というタイトルを初めて聞いたときは、ぎょっとしたけれど、慣れれば、なんてことはなくなってくる。

追記
やっぱり、『万引き家族』の「みんくる」が頭から離れない。子ども時代の終わりに、子どもだましのマスコットキャラクターが取り合わせられているように見えるのだ。

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