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#読書感想文 遠藤周作(1988)『私にとって神とは』

遠藤周作の『私にとって神とは』を読んだ。1988年に光文社文庫より出版されたものである。

遠藤周作は文学史的に言えば、第三の新人である。1923年生まれで戦中と戦後を生きた作家でクリスチャンとして知られている。

本作は、これまで人に質問されてきたことを遠藤周作自身がまとめて、質問と回答を構成している。自作自演の、ちょっと変わった趣向のインタビュー本である。

遠藤周作は母親が離婚をして、母親のカトリックの教会への入信をきっかけに、10歳で洗礼を受けている。キリスト教は自分にとって慣習で、肩ひじを張ったものではなく、サイズの合わない洋服のようなものだ(p.11)と述べている。

神は存在ではなく働きであり(p.28-29)、それは自分を支えてくれた人々であり、自分を傷つけた嫌な人たちもいて、自分が傷つけてしまった人たちもいる。自分の背中を押すもの、それが神の働きで、存在よりも重要なものなのだという。

仏教の唯識論では、この無意識を阿頼耶識とよび、(中略)それがキリスト教でいる魂、神の働くところであって、そこが人間の中で一番大切なんだと、ある時期から考えるようになってきました。キリストが働くのは、意識の世界ではなく、この心の奥底なのだな、神が働く場所はそこなんだな、と感じてきました。

遠藤周作(1988)『私にとって神とは』p.30-31

さっき、信仰というのは九十パーセントの疑いと十パーセントの希望である、と言いましたが、私はまだそういう信仰しか持っていません。現在だって動揺しているからです。(中略)その十パーセントとは無意識のところで信じているところだと思います。意識のところでは、たくさん疑う面があるんだけれども、さっき言った仏教で言う阿頼耶識のところで信じさせているものがあるのではないでしょうか。

遠藤周作(1988)『私にとって神とは』p.40-42

キリスト教徒でも仏教徒でもない人たちが、自分の過去をずうっと振り返られるならば、きっと、「あっ、なんと幸運だったんだろう」とか、「どうしておれは人生でこっちの方向に来たんだろう」というふうに、後ろから押されていた感じというものを幾つか持っているだろうと思います。(中略)それが、私の言う、十パーセントの無意識のところで信じているものなのです。

遠藤周作(1988)『私にとって神とは』p.44-45

福音書の書かれた順番は、マルコ、マタイ、ルカの順である(p.48)とかは今後の参考にしたい。

私のイエス像は母性的宗教意識だと思っている(p.59)。聖書の中で迫力があるのは、なぐさめの物語である(p.78)。マグダラのマリアはイエスに出会って、愛欲ではなく愛を知る。エロスではなくアガペーを知ることでのどの渇きが満たされる(p.98)。

仏教における救いというのは、結局、寂滅ということでしょう。寂滅ということは、もちろん滅びるということではなくて、煩悩その他をすべて取り払って、輪廻の世界を解脱した世界に行くことです。それは私にもよくわかります。わかりますが、キリスト教の場合のように、そこに生命の躍動というものが私には感じられないのです

遠藤周作(1988)『私にとって神とは』p.166

処刑されるイエスを見てみぬふりをして逃げようとしたペテロ、何度も踏み絵を踏んでしまう『沈黙』のキチジロー。人間の弱さを真正面から受け止めようとしたイエスには確かに愛がある。

わたしが信じているものは、虚無主義、実存主義、資本主義で構成されていて、どれも何とも薄っぺらいのだが、性根にまで影響を及ぼしているような気がする。キリスト教を信仰している遠藤周作が何とも羨ましく感じられる。キリスト教を学ぶには、やはり遠藤周作がうってつけなのかもしれない。

無意識の部分で神が働いているかどうかはわからないが、無意識が自分に与えている影響を軽んじてはならないように思われた。

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